4 いつの間にか、従っている
↑ここだけ読むと、まるで、ミサイルを飛ばしている外国のようだと思わないでしょうか
でも、これが、私たちがいる日本の、今現在のシステムです
日本の学校で、古いシステムに従うことを刷り込まれると、考えなくなります
指令で作られたルールを守ろうとしてしまいます
指令がある状態に慣れてしまって、指令が無いと不安になり、自分の真心を素直に伝えられなくなります
正しいことを言っている言葉に共感し、納得し、自分もそれが正しいと分かっているからこそ、ここで勘違いが生まれてしまうのです
1人1人の感じ方考え方が違うことが分かっていて、自分もそれが正しいと分かっているからこそ、自分自身のことを誤って認識してしまいます
「自分の心」で正しいことを判断できているのに、実際の「自分の行動」が心の中で思っていることと異なっている、ということに気付けなくなってしまうのです
「自分の頭の中で正しい判断ができている」から、「自分自身もその行動をしている」というように、思い込み・勘違いをしてしまいます
これが、イドラです
天が動いて見えるのが当たり前だから、それを信じている
ルールを守るのが当たり前だから、それを信じている
↑これが、間違ったことを信じている状態です。
「天が動いている世界にいるのではない、地面が動いている世界にいるのだ」
これが科学の真実です
「自主自律の社会にいるのではない、従順他律の社会にいるのだ」
これが日本社会の真実です
↑これが、真実に気付くという状態です
自分たちは自由だと思っている
自由がない状態なのに、自分たちは自由がある状態だと思っている
思い込んでいる
私たち自身が、従順他律の学校の状態を、正しいと信じ込まされています
私たちが苦しいと感じ、幸せだと感じられない(幸福度が低い)のは、社会のシステムが古いのです
ミサイルを飛ばしている国と同じような従順他律を保守し続けるシステム(ルサンチマン的支配のある社会)が、真実の日本の姿です
このシステムをエラーにすることで、新しい世界(自由な社会)を生み出すことができます
1人1人が幸せを感じることができる世界です
ところが、ルールというものの存在を疑わないから、ルールを守ることを信じ続けているから、システムについて考えないから、システムが古いまま改善されず、保持されてしまっています
ミサイルを飛ばしている国の人たちの髪形を見て、「似たような髪型だな~」と思っているかもしれませんが、日本の子供たちだって学校で髪型を制限されているのだから、同じシステムです
ミサイルを飛ばしている国の人たちの表情を見て、「行動を制限され、真心(本音)を言えなくてつまらなそうにしているな~」と思っているかもしれませんが、日本だって学校で着る服や行動を制限され、真心(本音)を言えずに嘘つきにさせられて笑顔を奪われているのだから、同じシステムです
我が子の学校では、ツーブロックを禁止しています
ミサイルを飛ばしている国も、ツーブロックを禁止しています
そこには、共通点があります
「偏見と抑圧が存在する、ルサンチマン的支配が常識の社会」という共通点です
ルサンチマン的支配者は、権力者の考えに何も考えずに従うアンドロイドを作ろうとしています
人々に、人間らしい「自由」を認めていません
『古い支配』を信じていて、『新しい個人の自由』をわがまま・自分勝手だと思い込んでいます
指令を信じて疑えない人々は、何も考えずにそれを常識として受け入れ、次の世代へとそのまま引き継ぎます。
「暴力的なルサンチマン的支配が幸せになる方法である」と、その社会の中にいる人々が、「権力者の指令であるへんてこりんなルール」「人々の自由を奪うルール」を常識として受け入れる世界になっています
人間らしい、発達した大脳新皮質という新しい脳みそを使わない方法です
人の心を、想像したり、考えたりしません
大切なものは目に見えないものなのに、大切なものが分からなくなるのです
ルサンチマン的支配者は、人々を考えないようにさせます
さらに、制裁によって恐怖を与えて脳みそを委縮させ、人間らしさを奪います
古いものを信じ続けるルサンチマン的支配者は、指令を常識とする社会をつくります
「ツーブロックは禁止です」という指令を出して従わせ、人々の自由を奪います
自律ではなく他律の状態にさせます
指令が存在すると、その指令と違う行動は、「おかしい・変・わがまま」だと多くの人々に思われる、多様性の認められない社会となります
これを読んでくださる方も、「学校のルールを守ろうよ~」「それは禁止されているでしょ」「ルールなんだから、我慢しないとね」「ルールを守らないから叱られるのは当たり前だよ」「ルールを守らない人が悪いでしょ」と言われたり、自分も言っていたりしたのであれば、それは、ルサンチマンに従おうとしている状態である、ということになります
多様性のない従順他律の社会を、いつの間にか自分も作り出している状態ということです
「ツーブロックはダメだよ」
指令が正しいと信じ、周りの人々にその行動をさせる
言っていること、やっていること、心の中は、ミサイルを飛ばしている国の人々と日本の学校の子供は、同じような状態になっています
存在する権力者が、「国のリーダー」か「学校の先生」かの違いです
制裁の恐怖の度合いが異なるだけです
「拘束・逮捕・刑罰」か「怒り・叱責・懲罰」かの違いです
心の中に制裁の恐怖があり、その制裁を恐れ、何も考えずにルールを守っているという点で、同じです
制裁を恐れて脳が委縮し、何も考えていない状態にさせられる人々が発する言葉は、同じです
他人から、自由を奪う言葉です
「ツーブロックはダメだってさ」「髪は黒いゴムで結ぶんだって~」
ミサイルを飛ばしている国の国民の会話と、日本の学校の子供たちの会話は、同じになります
何も考えていません
指令に従い、守ることに必死になります
古いものを信じていて、新しいものを信じていない状態です
ルールを守ることを信じていて、自分自身を信じていない状態です
なぜ、ツーブロックがダメなのか
その理由、禁止している意味を考えていません
なぜ「ツーブロックはダメだよ」と自分が発言しているのか、自分のことが分からなくなります
何も考えていない状態にさせられます
自分のことを考えない、自己理解させない状態にさせられている、ということです
「ツーブロックはカッコいいと思うけどな~」
「なぜツーブロックがダメなんだろう?」
「ルールにしているのがおかしいよね~」
「こんなルール、意味がないよね…」
と、自分の感覚を大事にしようとしたり、システムについて考えたりしている人もいますが、制裁が怖いから、本音を目立つ場所で発言しません
裏では、本音がささやかれています
でも、おかしなことが常識になっている社会ではわがままに見られるから、目立つ場所で本音は言いません
それに、本音を目立つ場所で言うと、制裁を怖がっている他の子供達からも攻撃されます
人々の心の中に「周りと違う発言・行動をすることに対する恐怖心」がしっかりと植え付けられます
指令が通るように、ルサンチマンが支配しやすくなるように、真心を隠すようにさせられているのが、従順他律の世界です
人々は、いつの間にか、違和感を持っていた思春期の自分のことを忘れます
おかしな常識の状態に慣れてしまうと、違和感を持たなくなります
違和感を忘れちゃうから、大人は子供にもルールを守らせようとします
考える脳みそを自分でうまく使えるように発達する時期が、思春期です
子供は指令がおかしいと違和感を持ち、自分の思ったことや考えたことを表現しようとしているのに、大人は「思春期の反抗だ」と子供を抑えつけています
人間らしく考えて表現すると、子供は叱られます
人間らしくシステムについて考えようとして、脳みそを使おうとしているのに、それをわがままだとされます
アンドロイドを作ろうとしているのが学校だから、アンドロイドになりたくない人間を叱るのです
アンドロイドをつくる場所では、アンドロイドになろうとしない人は、わがままに見えます
髪型が周りの人と違っていても、誰かに迷惑をかけることではないのに、自由な髪型は、行動を制限するルサンチマン的支配が存在する社会では、わがままに見えてしまうのです
子供がわがままに見える原因の1つは、子供の未熟さにあるのだと私は考えています
表現方法の未熟さです
自分の内面を言葉で論理的に表現できないから、泣いたり、怒ったり、騒いだり、乱暴な言葉を使ったりします
自分の内面をうまく伝えられず、言葉の使い方をまだ自分のものにできていない状態なのが、子供です
シンプルに言うと、動物の過程があって、人間へと進化する
その進化の途中なのが、子供です
「進化した脳みそ」を使うことができるのは、考える人間です
論理的に言葉で表現できる考える人間へと進化するためには、動物の過程も必要です
進化の途中(成長途中)なのが子供だから、表現方法が未熟なのは、自然なことです
心をうまく言葉で表現できないのが、子供です
未熟なのが、子供です
子供の心を想像せず、子供の真実の姿を正しく認識しようとしないのが、考えない世界であり、学ぼうとする心(知識欲)のない社会です
ルサンチマン的支配の社会では、表現方法が未熟だけども人間になろうとしている子供のことは、わがままで悪い子に見えます
怒ったり騒いだり乱暴な言葉を使うから、そう見えてしまいます
表現方法が未熟だから、「大人が子供の心を想像して心を言葉にしてあげること」「心を言葉で表現できる環境」が本当は必要です
そのためには、教育現場に大人の人手が必要なのに、人件費が確保されていません
言葉で心を表現する余裕を先生から奪うから、先生は、指令を繰り返します
心を言葉にするのが大人の役割なのに、先生が指令を出しているのが今の多くの学校です
心を想像してから行動するのが人間なのに、子供と向き合って話をする余裕が無いから、「心を想像することをバサッと切って、行動を指示している」ということです
忙しすぎるから、先生は指令を与えてしまいます
さらに上の組織からも、先生たちに向けて指令が出ています
「あれもこれもいいことだから、先生たちはその行動を子供にやらせましょう」と、学校現場を追い込んでいるから、実際のゴールが教育先進国と異なってしまいます
子供の心に寄り添って子供に自己理解をさせることではなく、指令にある行動を子供にさせることに先生たちも必死になってしまうのだと思います
「自分はシステムについて考えているのか」
「自分はシステムを何も考えずにそのまま受け入れているのか」
自分のことを知るために、自分のいる日本のことを知るために、具体例を追記しました
「大切なものは目に見えないものだよ」
物語に出てくる言葉に自分が感動し、アーティストが伝えるメッセージに自分が感動する
そうすると、自分が目に見えないものを実際に大切にしていると思ってしまう(イドラ)
「人は、自分のことを知らない」
自分が実際に、何を大切にしているのか
自分が実際に、大切にしているものは、「自分の心」なのか「他人に従う行動」なのか
他人を鏡にして、自分自身に問いかけることが必要なのです
例えば宿題について
自分が子供の時、あるいは大人になった今、
①「宿題は、勉強ができるようになるために必要なことである、と考えている」
②「宿題は、勉強が嫌いになるから、意味の無いことだ、と考えている」
②「宿題について、当たり前のことだから、何も考えていなかった」
自分は、どの考え方に近いですか❓
あるいは、また別の考え方を持っていますか❓
自分の考えを言葉にしてみると、自分のことが分かるようになります😊

自分の考えを言葉にしてから、次に読み進んでくださいね😊
先生は「子供に宿題をやらせて、学校に提出をする」という「行動」をさせることが子供のためになると信じています
先生は、「宿題を子供が1つ1つこなしていけば、子供の基礎学力が定着して立派に成長する」
そう思っているのだと私は想像しています
子供が宿題を行うことで成長できると思っているから、宿題は必要なものだと先生は信じています
「①宿題は必要なことである」、これが、ルサンチマンの当たり前を子供に押し付ける龍がやっていることなのです🐉
なぜルサンチマンかというと、ルサンチマンというのは、弱いのです
「弱い」というのは、「考える力がない」ということです
「自分には考える力がない」という自己理解ができていないのが、ルサンチマンなのです
自分で自分のやりたいことが分からないから、自分のやることを考えられないから、他人の指令を受けてその通りにやることが正しいと思っちゃっている
考えないから、システムをそのまま現在にも引き継いでいる
宿題は、自分で自分のやりたいことが分かっている、考える人間(貴族的な人間)にとって、有害です
本来は、1人1人違う課題があるのに、「先生の自己満足」と「先生自身の保身(子供に勉強をさせる時間を作らせているいう事実をつくる)」のために、同一課題の宿題を与えているだけなのです
学ぶことの楽しさ、知識欲を子供から奪い、与えらえた課題を淡々とこなす子を多く生み出しているのです
子供は、結果的に「③何も考えない状態」になって、ただ与えられたことをこなしています
もちろん、子供にもいろいろなタイプの子がいます
・先生が宿題を出してくれるから、そのスケジュールに沿ってコツコツと頑張ろうと思える
・宿題はやるのは当たり前だし、自分もやらないと落ちこぼれちゃうから頑張ろう
・みんなの前で先生に宿題忘れを注意されるのが恥ずかしいから、宿題をやるしかない
・学校に15時までいて、さんざんいろいろな課題を頑張っているのに、家に帰ってまでやりたくない
・宿題があると思うだけで、気持ちがだるくなる
・こんな簡単な課題、何度もやらなくても自分はできているし、自分の刺激にならないから意味が無い
・自分が成長を感じられない課題に時間を割くのは、意味が無い
・学校で頑張っている分、家ではのんびりしたり自分の趣味の時間にしたり、興味があることの勉強をしたい
子供は、それぞれがいろんな考え方をしているものです
学校の先生は、おそらく、他人から与えられた課題をコツコツとこなしてきた「おりこうさん」が多いのだと思います
「子供の心を想像する」
先生には、この余裕がない(あるいは、想像する力がない)のだと私は思っています
仕事場の上司から「これ、明日までに家でやってきてね~」なんて言われて、「よし!自分の成長のために頑張ろう!」と思える人が存在するか
学校から「これ、明日までに家でやってきてね~」なんて言われて、「よし!自分の成長のために頑張ろう!」と思える人が存在するか
このブログを読んでくださる方が、今の自分に当てはめて考えてみたら、簡単に分かることだと思います
先生は、「自分に当てはめて考える癖」がないのだと、私は思っています
「仕事を家でやってきてね~」だなんて、言われたら、どんな気持ちがしますか❓(もちろん、テレワークは別ですよ~)
宿題だって同様です
「この勉強を家でやってきてね~」だなんて、余計なお世話です

じゃあ、先生は、どうすればいいの~?
例えば…
「この部分は大事だから、来週確認テストをするよ~」って先生が言っておく
子供は自分で考えて、自分に必要なことをすれば良いのであって…
漢字を鉛筆で10回書いて覚える子もいれば、机に指で書いて覚える子もいる
口で唱えて覚える子もいれば、きれいにノートにまとめて覚える子もいる
簡単な漢字は2回書けば覚えられるけど、難しいものは30回書かないと覚えられない子もいる
それぞれ、自分に合った勉強方法をみつけていけば良い
自分に合った勉強方法を見つけられない子がいたら、先生はその子と話し合って、自分に合う勉強方法を見つけることができるように導くのが先生の仕事です
それなのに、「漢字5字を20回ずつ鉛筆で丁寧に書く」という宿題を与えることに何の意味があるのか、ってことを私は言いたいのです
「自分なりの覚え方があって、その漢字を正しく使えるようになる」これができるようになることが大切なのではないか、ということです
「これは仕事のことなんだけど、家でやっておいたら、自分のためになるし成長できる!」と思うから、自分で学ぼうとします
「これは学校での勉強のことなんだけど、家でやっておいたら、自分のためになるし自分が成長できる!」と思うから、自分で学ぼうとします

私は家で、仕事についての勉強をしますが、「家で勉強してきてね~」と上司から言われたら、一気にモチベーションが下がります
他人に自分の行動を指示されたくないのです!
自分のことは自分で決めたいのです!
自分は何が好きなのか、自分は何に夢中になれるのか、そのために自分が身に付けなくてはならない力は何なのか、なぜ国語や算数を勉強するのか
自分のことを知るんです!
その上で、自分の好きなものに向かって、頑張ろう!成長したい!思えるようになる、自分についての知識を得ることが必要なんですね
自分のことを知ると、自然と内側からエネルギーが湧き出てきます
他人から出された宿題、課題をそのままやるのが楽~という人も一定数存在します
しかしながら、「なんのためにそれをやるのかを、身に染みて分かっていない状態で与えられる課題」というのは、意味が無いのです
ただ、言われたことを何も考えずにやっているだけなのです
ルサンチマン(考える力の無い人)が、ルサンチマンを生み出し続けています
「人間は自分で考えて行動する生き物」です
だから、自分のことは自分で決めたいものなのです!!
他人のつくったフレームに入れられることに、納得していないのです!!
自分で考える力のある人間にとって、「宿題を与える先生はテリトリーを侵害する龍🐉」です
当たり前を疑わない人、意味を考えない人は、他人に指令を出されても痛みを感じません
当たり前を疑う人、意味を考える人は、他人に指令を出されると痛みを感じます
先生は、「自分に必要な学びは何なのか」本人に自己理解をさせればよいのです
人間は、自分で自分のことを決める生き物です
先生は、「学びたい」「知りたい」「できるようになりたい」「成長したい」という「欲」をエネルギー源とし、好きなものに夢中になるのが人間である、という人間の本質について、知識がないのだと私は考えています
自分がアンドロイドになると、「欲」を隠すようにされて「自分が正しい」と思うように操作されます
子供のことを知りたいという「欲」も見えなくなって、「正しい自分に新しい知識は必要ない」「自分は子供のことをよく知っている」と思いこんでしまいます
「学ぼうとする心(知識欲)が無い」という状態になると、その人が自身が成長しなくなります
だから、本質が分からないままになります
先生は、自分が子供の時に宿題を出され、自分は何も考えずに言われたとおりに宿題を出せる子だから先生に褒められ(魂の殺人)、宿題は子供の学力向上のために良いことだと思っている
私はこのように想像しています
先生は、自分の受けた教育、自分の受けた古いシステムをそのまま引き継ぐんですね
宿題が「当たり前」という世界にいるのだと私は想像しています
「当たり前」について考えないのです
先生は、「宿題を出されたら、子供はどんなことを感じるか、どんな思いを心に抱くか」と、1人1人の子供の心を想像していないのです

宿題を提出できないなんて、社会に出てから困るのはあなたです
昔は、与えられた仕事を黙々と行って機械のように働く人材が求められていたけど、今の時代で求められている人材は、自分で考えて行動できる人間です

勉強ができなくなったら困るでしょ
確かに困るのは本人ですが、子供に学力がつかないと先生自身の責任になってしまうから、先生は必死になっているのだと思います
子供自身が、なぜ勉強が必要なのかを分かっていないのです
子供を責めるんじゃなくて、本人が自己理解ができるように手助けするのが先生なのです

あなたは「明日出します」って言ったのに、それを守りませんでしたよね?
それじゃあ、嘘つきになるよ
ほとんどの場合、子供に「休み時間にやります」「明日出します」って無理矢理言わせているんですね
子供は「明日出します」って言い方を覚えさせられて、「言わされている」のです
従順他律の国では、嘘つきにさせられるんです
休み時間って、休むための時間なのに、その時間に宿題をやらせるの~~~???
(自分なら、終わらなかった仕事を休憩時間にやらされたら、嫌ですよ~~~!!!)
子供は、もっと勉強嫌いになると思うんですけど…
もし、家でやる必要性があるものであったら、「自分にはこの分量は無理だから、ここまでならできます」
「今日と明日は習い事で課題をする時間がとれないので、3日後に出します」
というように、自分のやることを子供が自分自身で調整して決められるようになるといいと思うんですけどね~
もし、自分で考えて約束したのに、約束通りにできなかった場合、他人からの信用が落ちますね…
でも、自分の発言や行動に自分で責任をもつことができるようになるためには、小さな失敗(経験)は必要なものです
自分の発した言葉、約束したことについて、自分で責任を負っていくことになる、ということは、身に染みて分かるようになっていくものだと思います
でも、今の学校では…
宿題を忘れた子を叱ります
これは、子供に「自分がダメだ」と思わせる(自己肯定感を下げる)行為になってしまいます
従順他律のアンドロイド工場では、アンドロイドのエラーは工場長の責任になるから、先生は自己保身のために子供を叱ります
そして、子供に「自分自身をダメな人間だ」と思わせ、「勉強なんて面白くない」と思わせ、知識欲を奪うんです
知識欲を奪っておけば、黙って何も考えずに従う人になってくれます
国家の歯車となって、自己犠牲をしながら、がむしゃらに働く人になってくれるシステムが、今の学校の教育方法なのです

宿題って、当たり前?
大事なものを、実際に大事にできている?
誰かのつくったフレームに、子供をはめ込んでいない?
私が大切にしているものは、「目に見えない心」
学校の先生が大切にしているものは、「目に見える行動」
先生から見ると、私はStrangerになります
私は、先生が当たり前だと思っていることに批判的だからです
宿題を与える先生の行為は、「勉強嫌いにさせている」と私は思っているからです
子供の心を想像すると、人間にとって有害なシステムである、と私は考えているからです
①「宿題は、勉強ができるようになるために必要なことである、と考えている」
②「宿題は、勉強が嫌いになる人もいるから、意味の無いことだ、と考えている」
②「宿題について、当たり前のことだから、何も考えていなかった」
自分は、どれに近いですか❓
あるいは、また別の考え方を持っていますか❓
自分の考えを言葉にしてみると、自分のことが分かるようになります😊
校長先生の裁量で(人件費は充てられていないど)自由な学校にすることは可能なのに、校長先生自身が、今までと違う新しいことをするのを恐れているのではないかと私は想像しています
実際に、公立中学校でも、校則をなくし、定期テストをなくし、通知表をなくしているところは存在しています
「定期テストをなくすなんて、どうやって子供は自分の実力を知るの??」と驚く方もいらっしゃるかもしれませんが、小テストは毎日行っているのです
「複数教科2か月分を一気にまとめて確認する」のと、「授業内容を理解しているかを毎日細かく確認する」のとでは、どちらが子供のためになっているのかを考えたら、正しさは見出せると思います
先生が決めたことではなく、子供たち自身が決めたことです
子供たちが自分に合ったものを自分たちで考えて話し合って決めました
「生徒会で自分たちで考えて決めていいよ」と、自主自律の教育を実際に行ってくださっている先生方は、素晴らしい行動力だと思います
子供が主人公になっています
実際、定期テストをなくしたいと先生方も考えていらしたようです
人間が考え抜くと、結局、同じようなところにたどりつくのです
教科の壁をなくし、子供の興味関心に沿ってカリキュラムを作っている公立小学校も存在します
これらは、ちゃんと国が認めていることなのです
むしろ、こちらの方が、法律に沿った教育のシステムです
現場の先生方の学びが追いついていなかったり、分かっていても先生が自分自身を信じて実際にとり入れようとする勇気がないから、多くの日本の学校で、古いものが引き継がれてしまうのだと考えています
自分のことを理解し、自分で価値を創造できる人間を育てるのが本当の学校の姿です
ところが、人々の心を思いやらず、自分のことを理解させず、自分で考えて行動をさせていないのが、今の学校の姿です
心を言葉で表現できないままだから、自分のことが分からないままになります
自分の得意なこと、苦手なことを受け入れることができない状態のまま社会に出てしまい、自分に合っていない道に進み、苦しんでしまいます
自己理解・自己受容ができないと、自分が苦しみながら生きなくてはならないのです
自己理解ができていないことも、幸福度が下がる原因になります
『世界一やさしい「やりたいこと」の見つけ方 人生のモヤモヤから解放される自己理解メソッド』 八木心平 著
今 Amazon で調べたら、「30万部突破」と本の帯に書かれていたから、読んでいらっしゃる方も多いのではないかと思います
私が ONF に出会った直後、やりたいことをはっきりとさせるのにとても参考になった本です
この本のタイトル通り、私はやりたいことをみつけ、新卒から続けてきた仕事を辞め、モヤモヤから解放されました
私は、自己理解ができていなかったから、自分に合っていない職業を選択し、苦しんでいたのです
こちらの著者も、「自己理解をする場が本来は学校なのに、今の学校では自己理解ができるシステムになっていない」「自分に合わないことを選択して苦しんでいる人が多い」というようなことを書いていた気がします
自分で価値を創造する子供を育てることではなく、ただ、その行動をこなす人を育ててしまっています
人間らしく考える人を育てるのではなく、指示通りに動くアンドロイドを作ってしまいます
指令通りにルールを守っている、おとなしくて何も考えていない従順な子がいい子に見えるという、ルサンチマン的支配の社会になります
そして、予算を出さない国は、先生方の教育に携わる喜びを奪い、教育の質を下げています
先生たちは、「子供が深く考える授業になるように研究し、良いものをとり入れよう!」
「子供の笑顔が自分の幸せです!」と思えなくなってしまいます
制裁が存在し、人々の恐怖心が部分的に働いている社会が、子供から自由を奪う日本です
制裁が存在し、人々の恐怖心が全体に働いている社会が、国民から自由を奪う北朝鮮です
このシステムは、日本の学校も北朝鮮も、全く同じです
客観的に見ることができる外国のことは間違っていることに気付けると思うのですが、実際には、私たち日本人も同じように疑いもなくそのことを信じて守っている状態になってしまっています
それが必要な事だと自分で考えて判断してルールを守っているのではなく、制裁に対する恐怖心があるから何も考えずにルールを守っているということです
自分がなぜそのルールを守っているのか、考えないから、自分のことが分からなくなります
ルサンチマン的支配者のルールを守ることが常識になり、ルールを守らないと叱られます
同じです

指令を出す世界は、言葉で話の筋を通すことができず、不自然で歪んでいます
怒りは、原始的な感情です
怒り・叱責・懲罰によって指令を守るのが常識の社会をつくります
怒り・叱責・懲罰によって人々を従わせるというのは、動物と同じで、古い方法です
多くの日本人は、実際に、指令を守っていない状態の子供を叱っているのだから、指令を信じて疑わない状態でいるということです
「ツーブロックは禁止です」という同じ言葉を指令として出されていても、おかしいと思わず、違和感を持たないのですから
一生懸命、このルールを守っているのですから
支配者に従っている自分自身に、気付かないのですから
いつの間にか、自分自身も支配者になって子供を叱っているですから
「ルールを守りましょう」
「ルールを守らないと叱られますよ」
支配が常識の社会にいる状態、当たり前を疑わない自分自身は、ミサイルを飛ばしている国の国民と同じように、支配者に従順になり、ルールを守らされて他律の状態になっているということです
怒りは原始的な感情ですが、これは、誰もが持っている感情です
怒りの感情を持つ自分自身も、肯定し、受け入れるんです
だから、問題は、この感情を自分がどう支配するか
どのように表現するか、ということが大事なのです
感情のまま怒りを表現するのか
誠実に言葉・音楽・美術などの芸術として表現するのか
人間の世界は、言葉で話の筋を通すことができ、自然の流れに沿っていて素直になります
新しい脳みそには、論理的思考をする部分があります
論理的というのは、話の筋が通っている、ということです
「人間とは、何か」を考え、真実をみつけることが、進化なのです
「話の筋を通すのが、人間」ということです
動物と同じ方法では、人間は幸せになれません
話の筋が通らない世界では、人間は幸せになれません
考え、想像する脳みそを使うのが、人間だからです
私たちは、人間だから、幸せになるためには、話の筋が通った自由のある世界を自分たちで作り出すことが必要なのです
自由のある国、自由のある学校では、話の筋が通らないルールは存在しません
「ルサンチマン的支配者のルールを守ろうとしながら行動すると、人は幸せになれない」という真実が、考える人間によって導き出されます
考える人間は、真実をみつけます
大脳新皮質を使わない指令は動物
大脳新皮質を使う自由は人間
よく考えている著名人が言うことに感動したり納得できるということは、多くの人々も、著名人と同じように自分で考えて正しさを見出すことができている、ということだと私は思っています
多くの人々も人間だから、考える新しい脳が発達していて、自分で考えて自分で正しさを判断できる力を持っています
自分で考えて正しさを見出し、相手の心を想像して行動するのが、新しい脳みそが発達している人間らしいことであり、これが、進化した新しい人類の姿です
他の動物と異なる進化をした脳みそを使うことが、人間らしいことといえます
「心を想像し、自分で考えて正しさを見出す」
「違いを認め合い、個人の自由を保障する」
これを明文化しているのが、日本の憲法や多くの法律です
日本国憲法にある「自由」は、新しい世界と一致します
だからと言って、このきまりを全て鵜呑みにするのではありません
ルールだから、これを守ろう!という生き方ではなく、
結局は、自分の頭で考え、自分で価値を創造していく生き方が大事なのです!!
指令を出し続ける、というのは…
能力が無い「ルサンチマン」なのです
弱い人間なのです
自分で考える力が無いから、他律の状態を保持しようとします
自分の行動に責任を持ちたくないから、他人軸でいようとします
能力のある自律・自分軸の人間を、弱い人間の作ったフレームに収めるための言葉が、「ルールを守る」という言葉なのです
弱い人間の価値で作られたルールを守ることは、能力のある人間にとって有害なのです
だから、信じるのは、自分自身です
人々の幸せを願っているのに、自分で考えて何が正しいかも分かっているのに…
歪んだ世界にいると、自分が正しいと思っていることと、実際の行動が一致しなくなるんですね
日本は、多数派が「ルールを守ることを信じている」という状態の国です
自分たち自身の社会のことを理解し、そういう自分たちのことを受け入れることが、まず重要なことになります
自己理解、自己受容です
正しい判断ができる自分自身を信じたら、幸せになれます
大事なものを現実に大事にできます
でもね…
指令を出されている国の中にいる人が、自分自身を信じて話の筋道を立てて言葉でルサンチマン的支配者に言葉で伝えても、伝わりません
ミサイルを飛ばしている国をイメージしたら、「無理だわ~!」と分かると思います
日本でも、子供が「ツーブロックにしたい」と言ったら、「わがまま」「ルールだから守るしかない」と思う大人がたくさんいることも想像できると思います
だから、指令を出されていない人が、自分自身を信じて「声」にすることが必要になります
真実をみつけて進化できた人間が、「声」にすることが必要です
人を愛し、自分自身を信じて、大切なものを大切にするのが、人間です

封建制度の薬が、学校現場に効いています
真実に気付くことで、私たちは進化できます
支配されていない親が、真実に気付いて「声」にすることが必要になります
大切な自分の子供を、実際に大切にするために
自分の家庭に幸せを引き寄せるために
我慢する (道徳)
常識をそのまま信じて疑わず、考えない
偏った思想(偏見)を刷り込まれ、心と行動を一致できずに抑えつけられる(抑圧)
みんな(全員)で幸せになれない