愛するという行動

5 法律について、考え

「制服は落ち着いて勉強するために必要だと思う」という A さんは、我が子です

「制服を着るのが苦しい」と訴えているBさんはも、我が子です

B さんが「苦しい」と感じている感覚は、私と似ていると思うので、私の感じ方をここに書いておきます

↓長文です

私も 制服が苦しかった

子供に「制服が苦しいよ」と訴えられて、私も同じ感じ方をしていたことに、今、気付かされました
子供の頃の自分の気持ちについて、我が子に気付かされることがとても多いのです
「他人は自分を映す鏡」つまり、子供が私を映す鏡になっているんですね

私は今、子供の卒業式などの儀式に出席すると、非常に疲れます
変な汗をかき、居心地が悪く、何となくストレスを感じる
閉塞感があるのです
そう感じるのは、式が退屈だからなのだと、最近までずっと思っていました
でも、子供のおかげで、違うことが分かりました

制服ジャケットは、上半身を圧迫され、動きが制限されて重たく、息をするのも苦しい
腕周り、肩周り、首周りが特に硬くて重苦しい
ジャケットの袖には厚みのある飾りボタンが付いていて、これが、字を書く時に邪魔になる
しっかりと机に腕をつけられないから、文字を書きにくく、カチカチとボタンが机に当たる音が気になる
そして、汚れが付いても洗濯ができず、毎日同じものを着るのは汚くて不快である

私は中学校高校生活をすごした6年間、何とも表現しがたい生きにくさを感じていました
小学生や大学生の時には感じなかった、重苦しい感覚です
思春期で自意識過剰になっていたからなのかな~なんて私は思っていたのです
それが、今、繋がったんです
今、卒業式や入学式などの儀式で、自分はやたら疲れます
この感覚は、制服を着ていた時と同じ感覚の疲労感、閉塞感だと気付かされたのです

重たく硬い制服ジャケットが、私は苦しかったのです
重たく硬い制服スカートが原因で、心がソワソワして落ち着かなかったのです
あの思春期の時の変な感覚は、「着ているものが自分に合わなくて、私は苦しかったのだ」ということが、今、分かったのです

これを、ずっと不快に思っていたんですね、私は…
考えなかったから、今まで気付きませんでした
子供が自分を映す鏡となったから、私は自分の心に気付くことができました

今、私が大人になって、硬いジャケットを着て変な汗をかきながら過ごしている状態…
これを、今、我が子は毎日感じているわけなのだから、私は、この苦しみを共感できるのです
書いていて思い出したのですが、ジャージ姿で机に向かって授業を受けていた時には、解放されたような、楽な気持ちになっていました!!

私は 考えていなかった

学校の式に出席した時、私は友人との会話の中で、自分の子供が制服で苦しんでいることを話題にしました
すると、その友人は、動きやすいブラウスで式に参加していたのです
(友人の着ている服に気付かずに、服のことを話題にしていました…)

「子供の気持ち、私も共感できる~!以前、私は式の時にジャケットを着ていたんだけど、息苦しくてお祝いの気持ちになれないのよね… 何のためにここにいるのかを考えたら、この服になったの! だから、自分らしく心からお祝いができる服にしたの」

この言葉を聞いて、私は感激!

自分の心に気付き、素直に、自分に正直になることが、自分らしさなんだと思います!
心がお祝いする気持ちになることが大事なんですね!
心が勉強する気持ちになることが大事なんですね!

自分が着る服は、自分で考えて、自分で決めればよいのです

私自身、式の際に自分が着る洋服について考えていなかったから、いつの間にか、他人と同じような行動をしていて、他人と服装を合わせようとして自分で苦しんでいたのです
考えていないと、いつの間にか、周りと合わせようとしてしまいます
自分のことについて、私は考えていなかったのです

自分の人生という 物語の『主人公』

「自由」を信念に持ち、それを有言実行している学校では、制服はありません
偏差値が高い高校では、制服は廃止される傾向にあるように思います
「自分で考え、自分で決めて行動することが幸せになる方法だ」という正しさが、見出されているのではないかと私は考えています

「規律のある自由」をうたっている学校もあるようです
そこでは、今、土日の部活などでも制服を着て登校させています
子供が自然と自分らしくすごせる服(部活のジャージなど、動きやすくストレスが少ない服)を着ているのに、見た目を揃えようとする考えを持つ大人が、子供の自然な姿を許せていないように私には思えます

自分で着る服を自分が決める、というのは、誰かに迷惑をかけていることではなく、自律です
「大人が勝手に作ったフレームに子供をおさめようとする」これは、他律です
子供の服が揃っていないことで、気分を悪くしている大人、つまり、違いを認められない大人の方が問題です
自分の時代には制服を着ているのが当たり前だったから、その当たり前以外はエラーだと感じてしまうのだと思います

相手の心を想像しないから、見た目(行動・形)を揃えようとしてしまいます

他人に迷惑をかけているのは、大人の方です

子供にルールを与える、というのは、子供にとっては迷惑行為になります

子供の自由を奪っているのは、ルールを与える大人です

他人の自由を奪っていることに、大人が気付いていません

「規律のある自由」という言葉、いかにも正しそうな言葉ですが、大人が作ったフレームにただおさめようとしているだけのことです
強制ボランティアという言葉を時々聞きますが、「強制」と「ボランティア」という言葉は同時に存在しません
同様に、「規律」と「自由」という言葉は、同時に存在しません

規律:人の行為の基準として定められたもの、おきて(goo辞書より)

規律というのは、人の行為の基準を周りの人が決めたものです
規律の存在する場所では、子供は他律になります
つまり、アンドロイドになります

自由というのは、自分で考えて、自分のやっていることに責任を持って行動することです
自由の存在する場所では、子供は自律になります
自律というのはわがままと違い、自分の力で秩序をみつけていくものです
つまり、人間になります
自由なのが、人間なのです

違和感を持たず、考えないままでいると、騙され続けてしまいます
「規律のある自由」というのは、言っていることがメチャクチャです
これは、偽物の自由です

私たちに間違ったことを信じさせようとする言葉です

朝日新聞夕刊(2023年3月29日)では、「中学ブレザー みんな一緒でみんないい」という見出しで、制服の話題が一面に掲載されていました
「自治体ごとにブレザーを統一し、リボンやネクタイなどで学校ごとの個性を表す」ということらしいです
ジェンダーに対応している、制服の値段が安くなる、お下がりを譲りやすくなる、良い事づくしのように書かれていました

「みんなちがってみんないい」という相田みつをの名言に、多くの人は感動していると思うのです
ところが、実際には、「みんな一緒でみんないい」というのが、まかり通っているのです
一面にドン!と、この言葉が掲載されているわけですから
私は、ものすごく強い違和感を持つのです
でも、私のように違和感を持つ方は少ないのではないかと想像しています

「みんな一緒」って、大量生産型ロボットのことですよね?
見た目、行動を、統一しようとしていますよね?

見た目、行動を揃えようとするのが日本の当たり前になってしまっています
従順他律が当たり前なのが、日本なのです

安価になる、お下がりを利用できる、というのは、大人の都合です
「貧富の差を分かりにくくするため」というのは、遠くから眺めているだけで、そのものの本質を見ていない大人の視点です
色褪せたり、スレたりして質感の異なる制服に気付くことができていません
むしろ、貧富の差が分かりやすいのです
新品の制服を着ている1年生の中に、色褪せた制服を着ている子がいると、目立ちます
3年生になると、その色褪せやスレは進行し、さらに目立ちます
制服を着ている子供たちが、そのことをどのように感じているのか、大人は想像していません
お下がりを着ていることを気にしない子もいれば、そのことが気になって、ありのままの自分でいられなくなってしまう子もいます
「他人のお下がりを着るということは、我が家は貧しいってことか…」というように、劣等感を持つ子も存在します
周りには「あの子は兄姉がいないのにお下がりを着ているということは、お金がない家なのね」と想像している子もいます
小学生まで私服だったのだから、そのまま中学生高校生になっても私服ですごすというのは、何の障害もないはずです
自然なことです
最近は、ユニクロやしまむらなどで、安くて良質な私服が手に入ります
公的支援制度も整いつつあるのが今の時代です
私服が毎日同じだからいじめられる、お金が無くて遠足に行けない、という昭和の時代ではありません
普段着として私服も必要なのだから、むしろ、制服があることによって余計にお金や手間がかかってしまいます
「貧富の差を解消するために制服が必要だ」という考え方は、「古いものを信じていて物事の本質を見抜いていない」という時代錯誤なことだと私は考えています
勝手に大人がフレームを作って、大人も苦しみ、子供も苦しんでいます

身長が伸びる時期に高価な制服を着させようとすること自体、不自然です
高価で買い替えが難しいものなのだから、多くの場合、最初に大きめのものを買います
1人1人成長のスピードにも差があります
中学1年生ではブカブカ、3年生ではキツキツになる子もいる
明らかにサイズが合っていない服を着ている状態を見て、なぜ違和感を持たないのか、私は不思議でなりません

「中1のブカブカのブレザー、超かわいいよね!」
「制服がきつくなるくらい成長したのね~!」
なんて感激をしている人もいる

じゃあ、大人は、2サイズ大きなジャケットを子供の卒業式で着てみてはどうでしょう?
かわいいですかね?
自分がやせていた時に来ていたジャケットを着てみてはどうでしょう?
大きくなったことを喜べますか?

どれだけ着心地が悪いことか…
どれだけ心が落ち着かない状態になることか…

毎日、子供は、この状態です

大人は、子供の心を想像していないのです
真心を知ろうと、子供の心を聞こうとしないのです

「制服を着ると、子供はどう感じているのか」
「制服を着ることについて、子供はどう考えているのか」
という、目に見えない「心」を大人は想像していません
議論の場を与えず、真心を聞き出そうともしていません
お下がりの服で、劣等感を抱いている子がいることに気付けなくなります
硬くて重たくて動きにくい服で、苦しんでいる子供がいることに気付けなくなります

それぞれが、1人1人がいろいろな感じ方をしているのに、「心」を想像しようとしなくなっています

服を着るのは、子供自身です
服を着るという行動は、子供が主人公の世界の話なのに、なぜだか、大人が主人公になって話が進められています

子供の人生の主人公は、子供です

自主:他からの干渉や保護を受けず、独立して事を行うこと。「ーの精神」「ー性に欠ける」「ー独立」(goo辞書より)

大人からの干渉、保護により、子供は独立できません
大人は、子供が独立しないように、操作しています
自主の状態を奪っているのが、ルールを与えている大人です。「分が」になることを妨げているのが、大人なのです

大人の指令があるから、子供は、分が人公になれません

大人は、自主自律が大事だって分かっているはずなのに、実際には、当たり前を疑わずに従順他律を信じているから、子供は主人公になれずに苦しんでしまいます

実際には何も考えずに指令を守っている状態です

言い換えると、

正しいことを言っている法律に納得できる自分自身

正しいことが何かを判断できる自分自身 

自分自身を 信じることができていない状態なのです

話が広がってしまいますが…

オランダでは、人々の思想や行動を揃えようとしていません
そして、街並みを揃えて美しくしようとする景観や建物に関する法律が厳しいです
人々が美しいと感じる普遍的なデザインを大事にし、統一感を持たせ、地域ごとに空間を整えています

心が整っているから、空間を整えようとします
空間が整うと、心も整ってきます
好循環です

この法律は、そこにいる人々の歴史や人々の思いを大事にし、そこに住む人々によって話し合われて納得して作られたもので、街並みに一体感が生じます

日本では、いつの間にか、人の思想や行動を揃えようとしています
ところが、街並みを揃えようとしていません
人々が美しいと感じる普遍的な部分のデザイン、空間の美しさを追求していません
そこに住む人々が話し合わず、デザインの美しさを追求せずにそれぞれがバラバラに作っているから、街並みに一体感が生まれません

統一するものが、逆になっています
「人間の個性」「街並みの個性」
これが生まれるのはどちらでしょうか

日本の学校は、自由を知らない大人によって、子供の自由を奪って従わせる場所になっています

自分で考えさせないから、子供はただ周りと行動を合わせようとしてしまいます

大人がフレームに納めようとするから、子供はアンドロイドになって考えなくなります

自由の無い学校は、「アンドロイド製造工場」ということになります

教育予算を削り、少ない教員の数で多くの子供を大量生産・操作できるように、従わせてしまっています

従わせる、というのは、古い状態のものを守ろうとしていることです

古いものが正しく、新しいものはエラーだと感じられてしまいます

遺伝子の新しい保存方法(自由)ではなく、古い保存方法(指令に従う)を信じている状態になります

自由というのは、考える力が必要です

人間らしい、高度な知能を使います

今ここにある常識が間違っていることに自分が気付くことで、古い世界から抜け出せます

古い世界では、間違った常識について考えないようにさせられてしまっています

だけど、考える脳みそを持っているのが、人間です

考えることができます

クリティカルシンキングです

科学と自然が融合した未来の人類の礎となるのは、人を愛することができる人間、考える人間を生み出すことです

人々を思いやる科学技術を発展させ、真心を伝え合って感動し、人生の素晴らしさを感じて幸せになることです

みんなで、1つの家族のようになってお互いを大事にすることです

これが、新しい遺伝子の保存方法です

人間は自由な生物だから、自由が必要になります

心を想像し、考える世界を作ることです

迷惑にならない行動を制限する「ルール」というのは、ルサンチマン的支配者の考え方(偏見)で行動をさせるためのものです

人々が自分で考えて行動する」という自律の状態を奪う行為になります

ルールを他人に与えるということは、他人の自由を奪っている状態になります

人々がルールを守る、ということは、人々は自分で考えない従順な状態になります

心を想像してから行動するのが人間なのに、ルールの通りに行動しようとするから心を想像しなくなります

ルールを守ろうとすると、人々は、自分で考えなくなります

心を想像せず、考えない世界になっているのが、日本という国なのです

「(ルサンチマン的支配者の)ルールを守ろう」という人々が従順になる言葉を、先生が子供に刷り込んでいます

「我慢が大事です」と従順でいることの大切さを、道徳で授業しています

これが、日本の常識なのです

「ルールを守ろう」と刷り込んでいるのが、学校です

「制服を着ましょう」と、他人の迷惑にならないことを、当たり前のようにルールにしているのですから

当たり前のように、髪型を制限し、持ち物を制限し、遊具の使い方を制限しているのですから

人々を苦しませながら、ルールを守らせているのですから

ルールに従わない子を、叱っているのですから

ミサイルを飛ばしている国と同じシステムなのです

ルールを守ることが、日本の常識になってしまっています

真実をみつけることで、人類は進化できます

騙されている状態から抜け出し、独立する」というのが、進化です

自分の足で、パラレルワールドを移動する」というのが、進化です

古いシステムから抜け出して、新しいシステムにする」というのが進化です

「今の異常な状態から抜け出そう!」という思いを一緒に持つことです

人間だから、自分の内側から「異常な状態から抜け出そう!」とエネルギーを生み出すことができます

このエネルギー源は、人を愛する心です

これが、「独立の気概を持つ」ということであり、独立自尊の生き方です

Übermensch です

Übermensch は、「人を大事に思う心」「人を愛する心」を持ち、自分で価値を決める人間らしい姿です

信じているのは、自分自身です

5 法律について、考える