愛するという行動

親子の間には、『愛』があります

何を言っても許される、何を言っても受け入れてくれる信頼と安心があります

だから、真心が言えます

我が子( B さん)は、真心を、親である私に伝えています

私が言葉にできなかった感覚を、我が子は「苦しい」という言葉を用いて、私に真心を伝えています

先生には、わがままだと思われるから、子供は先生に真心が言えません

先生は、「他人を従わせていないよ~」と思うかもしれませんが、従わせています

迷惑をかけない行動を制限するルールを与えているのであれば、それは、ルサンチマン的支配です

子供は先生の真心を受け取ることができません

先生が心の中で、いくら子供のことを大事に思ってくれていても、先生の行動は、子供を苦しめることだからです

そして、その苦しみを取り除こうと、実際には行動しません

先生だけでなく、親もこの状態を認めてしまっています

日本の従順他律の常識に、自分が染まっていることに気付けないんです

日本の道徳を刷り込まれると、自分の実際の姿・現実が分からないままになるのです

「『先生の言うことを聞くんだよ』と子供に言う」ということは、先生の指示に従うのが当たり前だと親が信じている状態です

「『学校のルールを守ろうね』と子供に言う」ということは、先生に従うことが正しいと、親も子供に刷り込んでいる状態です

先生が子供のことを大事に思っている真心に、嘘偽りはないと思います

ただ、みんなが幸せになれるシステムがルールを守らせることだと「信じている」のです

「信じているもの」が、間違っている

他人を信じる」「ルールを信じる」というのが、間違っているのです

多くの先生は、日本に常識として存在している従順他律のシステムを信じています

常識を疑わないから、ルサンチマン的支配に黙って従うアンドロイドをつくろうとしてしまいます

「他人を信じる」「ルールを守る」というのは、教育ではありません

「教育」ではなく、「刷り込み」「インプット」になります

常識を疑わないから、自由を知らないままだから、自分が受けた「刷り込み」「インプット」という方法を「教育」だと思い込んでいます

いつの間にか、自分がルール(指令)を与え、「他人の言うことを聞く子」「ルールを守る子供」を褒めています

「ルサンチマンのルールを守る子供を褒める」というのは、「他人に従っている状態を褒める」ということになります

自分で考えることをさせず、インプットされた通りに行動するアンドロイドをつくっている、ということです

これは、自分で考えて行動する人間らしさを奪っています

人間の魂の殺人です

何も考えずに、ルールを守って制服を着ている子供を、先生が褒める

自分で考え、自然な自分の姿に近づきたくて、制服をルール通りに着ない子供を、先生が注意する

心を想像せず、見た目や行動を揃えようとする偏見が存在する社会では、自分で考えて自分らしい姿でいようとする子供のことが、わがままに見えます

歪んだ世界では、考えている人間が間違っていることをしているように見えるから、先生は注意をします

先生は、悪意なく、「ルールを守って行動を揃えることが子供のためになっている」と信じています

自分が、ルールを守っていることを褒められて育ってきたから、ルールを守るのが常識の社会にいるから、ルールを守るのが正しいと信じ込まされています

ルールを子供に守らせることが子供のためになり、子供が幸せになることだと、疑いもなく信じています

スカートの下にズボン

例えば、「なぜ制服のスカートの下にジャージのズボンを履いてはいけないのですか」ということを子供が大人に質問してくることがあると思います
そのとき、大人は子供を説得することができません
なぜなら、ズボンを履いてもいいからです

私たち人間は、本来「自由な存在」です
自分で考え、想像し、自分で決めた行動をするのが人間だからです
自分で価値を決め、自分で自分自身を支配するのが人間だからです
自由を奪うものは、人間でない状態にしようとするものであり、話の筋が通らないものばかりです
人間を人間でない状態にしようとするものは、説明しようとしても、話の筋が通りません

自由を奪われることに納得をしている」「人間でない状態にさせられて納得をしている」というのは、『騙されている』ということです

私たち人間は、騙されないようにするために、考えないといけないのです
考えるのが、人間だからです
考えるから、考えることができるから、人間なんです
当たり前、常識を疑う「クリティカルシンキング(批判的思考)」ができるのは、人間だからです
考えて想像して人を大事にできる社会を作っていくのが、人間です
大事なものを、実際に大事にするのが、人間です
騙されないように、自分が人間として生きるために、考えることが必要になります

指令を守り続けている、ということは、騙され続けているということになります
人々に間違ったことを信じさせようとしているのがルサンチマン的支配者です
それが間違っている、というのを見抜くことが、批判的思考ができる人間です

「ルールだから」ルールは守るものだから

「ルール」に「だから」を付けて、理由にすることはできません
ルールになるためには理由があるはずなのに、その理由を答えなくては、理由になりません

「ルールは守るものだから」というのは、この言葉だけを切り取ると合っています
ルールは守るものですが、「ズボンを履いてはダメです」というのは、自由を奪うものなので守らなくても良いものになります
日本の中では「自由を保障する」というのが本当のルールだから、本当のルールを守るとこの偽物のルールは守らなくて良いことになります
従わせるために権力者によってルールと名付けられている偽物は、守らなくていいものだからです
偽物のルールを守ってしまうと、「自由が無く、従っている」という状態になります

当然、日本国憲法というルールを変えることも、正当な手続きを踏めば可能です
だけど、変えようとするとき、人間らしさである自由を奪おうとしていることがあるから、細心の注意を払わなくてはなりません
ただ、人類の理想に近い状態になっているのが、日本国憲法です
この憲法を守っていれば、自然と、人々が苦しんだり、争ったりしないようになっていて、みんなで幸せを感じることができます

この憲法は権力者の暴走を抑えるための、かなり重要な役割があります
この暴走を抑える条文を変えようとしている場合があるので、私たちは見張っていなくてはならない!!
深く考える人間が、人々の幸せを願ってつくったものが、この条文です
権力者の暴走を認めないものだからです
今現在、日本で起きていることが、ルサンチマン的支配を認めるものになろうとしていないか、ちゃんと自分の頭で考えることが必要です
考えないと、ルサンチマン的支配に従わされます

ルールを守ること、ルールに従うことを刷り込まれてしまうと、それがなぜルールになっているのかを考えなくなってしまいます
正解とされるものを刷り込まれると、問いをもたなくなってしまうのです
どんなルールにもルールになっているのには理由があったのに、その理由を考えていません

「ズボンを履くのはダメ」というルールの理由を説明しようとしても、話の筋が通りません
ルールになったときに理由がつけられていた場合でも、その理由を説明しようとしても、実際には、正当な理由になっていないのです

絶対に間違っていることが含まれています
ルールになることができないものなのに、ルールになっています

「ズボンを履きたい」という個人の自由を奪う指令が、「ズボンを履くのはダメ」というものです
個人が「心」で思ったことを「行動」に移すことを妨げているのが、自由を奪うという行為なのです
個人の自由を奪うことを正当化しようとしても、その理由が間違っていることは、考えている人間によって見抜かれます
そして…アンドロイドは自分の信じているものが人間によって否定されようとすると、人間を嫌って攻撃するのです
怒りの感情を言葉で論理的に表現する力を持たないから、怒りの感情を暴力的に表現します
アンドロイドに嫌われたり攻撃されたりするのを恐れる人が多いから、ルサンチマン的支配は繰り返され、保持されてしまうのです

私たちが人間として生きるために必要なこと…
大事な人と一緒に幸せになるために、子供のように人生を思いっきり楽しむためには、嫌われる勇気をセッティングすることなのです

Beautiful!

「校長先生に聞いてごらん」

自分で理由を説明できないから、権力者にたよります
先生は、何のためにそれをルールにしているのか、分かっていないのに守らせています
先生はルールについて考えていないから、なぜスカートの下にズボンを履いてはいけないのかが、分からないのです
何も考えず、ただ、ルールを守らせているだけです
そして、分かっていないのに、ズボンを履いている子供を注意します
「ルサンチマンのルールを守らせることが幸せになることだ」と何も考えずに信じています
「ルサンチマンのルールを守る」ということを信じているから、考えなくなってしまいます
なぜ自分が「ルサンチマンのルールを守る」ということを大事にしているのか、自分のことが分からないのです

「カッコ悪いから」

カッコ悪いかどうかは、見ている人の感じ方によって違います
他人と見た目が揃っていないことをカッコ悪いと感じる人もいれば、見た目を揃えさせられて心を大事にできていないことをカッコ悪いと感じる人もいます
後者の感じ方をする私は、崩した着方をする人を「自分らしくてカッコいいな」と感じています
ズボンを履いたらこの人は心が落ち着くのだと私は想像しているからです
自分の心を大事に生きている人は、とてもカッコいいです!
洋服というのは、その人らしさが出せれば、着ている人の心が豊かになっていれば、それが一番カッコいいです
心が豊かになっていたら、自然と行動や発言にも自信が生まれ、周りの人も幸せにすることができるからです
「カッコ悪いから」というのを理由にしようとするのは、1人1人の感じ方の違いを認めようとしない先生の発言です
自分の感じ方が「普通・当たり前」と思っているのでしょう

これが、今の日本です
こうやって、マイノリティ(少数派)は否定され、我慢を強いられてしまうのが、今の日本です

注目すべきは、次の点です

今の日本では、多数派は「ズボンを履くのはダメです」と、多数派と同じ行動をすることを、少数派の人に強いています
他人の行動を制限しています

かと言って、少数派は「ズボンを履きなさい」と、少数派と同じ行動をすることを、多数派の人に強いていないのです
他人の行動を制限しようとしていません

多数派は、他人を従わせようとしているのです(従順他律)
少数派は、他人を従わせようとしていないのです(自主自律)

学校で物事を決める時に、異なる意見を出させない雰囲気が作られ、指令が通りやすい状態にされています
考えさせず、異なる意見を言わせないようにされています
刷り込まれたものを信じている人々の意見(多数派)が通るよう、仕組まれているのが学校です
多数派は、自由が無い状態を疑いもなく信じている状態である、というのが、今の日本です
ルサンチマンのルールを守るのが、日本の常識なのですから
少数派の意見を出させない状態を「話し合いの場」としています
少数派の意見を出せないようにされ、少数派は攻撃される仕組みになっているのに、「この方法が正しい話し合いの方法だ」と多くの人々は騙されてしまっています
多数派を正解だとされ、少数派は多数派の考えに従うようにさせられています
話し合いのシステムが間違っているのです
そして、『1人1人の心を大事にする道徳』ではなく、『我慢することが大事だという道徳』が刷り込まれているから、多数派の価値に合わせるのが常識になってしまうのです

ただ…
この話し合いのシステムや道徳は、私が子供の頃のシステムです
最近は、少数派の意見も認められる話し合いのシステムをつくってくださる先生、心を大事にするシステムを作ろうとする先生が増えてきているのではないかと感じています
我が子の学校の先生の授業でも、刷り込みではない『教育』や、「1人1人が大事にされる話し合いが行われているな~」と思うことがありました
進化はゆっくりですが、『教育』の場面が増えてきているのだと思います
しかしながら、『教育』を行っている先生は、残念なことに少数派です
つまり、まだ古い「刷り込み」「インプット」を行っている先生の方が、圧倒的に多数派です
学校教育目標と正反対の「(ルサンチマンの)ルールを守ろう」がクラス目標になっているのですから…
メチャクチャなのです

少ない大人の数で多くの子供をみているから、先生方は子供たちを従わせる場面がどうしてもできてしまうのだと思います
先生がいくら頑張っても、もっと大きな学校現場のシステムが古い
そして、もっともっと大きな日本社会のシステムが古い

だから…
ゆっくりだけど、先生も変わってきているから、真実を見抜くことができる人間が増えていると私は思っているのです
刷り込まれたものを信じ続ける「ルサンチマンのルールを守る良い子のアンドロイド」ではなく、「真実を見抜くことができる人間」が増えてきているのだと私は考えています
頭が柔らかいと、学ぼうとする心(知識欲)があると、真実をみつけることができます
考えるから、知ろうとするから、アンドロイドではなく、人間になれるのです
このエネルギー源は…人を愛する心です
好きだと、愛していると、知りたくなり、学びたくなります
人間であれば、「知りたい!」という欲があるんです
諦めさせられたままのアンドロイドは、知識欲をみつけられないのです
学ぶと、真実をみつけることができます
そうすると…大事なものを実際に大事にできます

自分の考えに「ルール」と名付けて、人々の自由を奪って従わせようとしているのが他人のテリトリーに入り込む龍であり、考えないようにさせられてただ従っているのがラクダ(アンドロイド)です
アンドロイドは考えない状態のまま大人になると、いつの間にか自分も龍になります。「カッコ悪いから」というのが理由になる、ということは、「みんなも、カッコ悪いと思っているでしょ」ということになります
「私は、カッコいいと思うのです」と言っても、おそらく、「自分の感覚が正しい」と先生は思っているのではないかと思います
アンドロイドは我慢しない状態、ルールと異なる行動を、自分勝手・わがままだと思うように操作されています
アンドロイドの世界は、そこにある指令と違うことを言わせないように、異なるものを攻撃します
違いを認めない、自由を認めないのです
アンドロイドは、指令(ルール)と異なるものは、間違っているように感じられてしまいます

本当のルールは、1人1人が大事にされる、人間の本当の姿である自由を保障しているものです
本当のルールを守っていないのが、自己理解ができていないアンドロイドです

でも、多くの人は、本当は、自分で正しいことを判断できる力を持っています
日本国憲法に書かれている内容に、解釈に多少のずれがあっても、話の筋が通っていることに多くの人が納得できているのだと思っています
単語や言い回しが難しくて、ちょっと分かりにくい部分もあるのですが、筋が通っています

ハンマーで哲学する—お腹の中に蝶々がいる—


自己理解をすること、自分のことについて考えるのを妨げられてきてしまうと、自分が信じているものが間違っていることに気付けなくなってしまいます
実際には「ルサンチマンのルールを守る」のが正しいと多くの人は信じ込まされています
実際には「ルサンチマンの指令に従う」という状態にさせられています

人々を苦しめる法律も存在しているのに、その間違った法律を直そうと行動しないようにさせられています
「声」をあげないようにさせられてしまうのです
新しいものを創造しないようにさせられてしまいます

「感じ方が1人1人違う」という違いを認めることができていれば、「カッコ悪いから」というのは、理由になりません
大事なのは、他人がどう感じるかではなく、本人がどう感じるかです

・・・

おそらく、最終的に、校長先生や多くの先生方は、優しくこういう言い方をするんじゃないのかな~なんて私は想像しています

「スカートの下にズボンをはいていたら、ちょっと目立つんじゃないのかな。スカートの下にズボンを履いて街の中を歩く人はそうはいないから、そういう着方はしない方がいいと私は思っていますよ。」

校長先生というのは、知識が多くて落ち着いて喋ることができる人が多いように思っています
そして、間違っていることでも、合っているように聞こえる喋り方ができる方が、こういう役職に就くことが多いように思っています

この内容で納得する子供も多いのだと思いますが、これで納得してしまうというのは、まだ、騙されています
「私は思っています」と言って、自分の考え方を他人に押し付けていない喋り方ができる人に、騙されてしまうのです

じゃあ、実際にはどうなのか、ということが問題なのです!

「校長先生はそう思っているということは分かりました。私はズボンを履きたいのです。ズボンを履くから注意しないでくださいね。」というところまでもっていくことが、実際に幸せを手にすることなのです

「『思っています』じゃなくて、『履くのはダメですよ』ということですか?」
「『思っています』と先生は言っていますが、実際には、『ズボンを履くのはダメ』というルールを与えていますよね?」
というところまで追及しないと、幸せは手にできません
先生は、言っていることとやっていることが違っているのに、先生の言っていることを信じてしまうということは、騙されているということです

こういうことを子供が言うと、先生は「うるさい子供だな~」と思うようになります
結局は、ここまで追及されてしまうと、先生は、自分の言っていることとやっていることが違っていることを認めるしかなくなってしまいます
「結局は、履いていいのか、ダメなのか」とルールについて追及されると、「履くのはダメですよ。」と言うことしかできなくなり、立場が悪くなります
立場が悪くならないように、例え話をしたり難しい言葉を使ったりして、それっぽく聞こえるようにごまかそうとする先生もいます
でも、「良い」「ダメ」のどちらかで答えるように求めると、「ダメ」としか言えなくなります
国会の答弁も同様で、「このどちらかで答えてください」と言われても、ダラダラと話してごまかそうとするのが、多くの『先生』なのです
「ダメ」と言う、ということは、自分が言っていること「思っていますよ」というのと、やっていること「ダメですよ」というのが違っていることを認めることになります

自分が間違っているのを認めたくない、認めようとしないのが、「指令に従って褒められてきた自分は、正しいことをしている」と信じているアンドロイドなのです

自分がルールを与えているのに、何も考えていないことを認めたくないから、怒る先生もいます
筋道を立てて自分の正当性を論理的に説明できないから、ルールの正当性を言葉で説明できないから、怒りの感情をむき出しにして他人を威圧しようとします
「他人の自由を奪う行為が正しい」というのは、論理的に説明できないことなのです

「そういう着方はしない方がいいと私は思っていますよ」と自分が言っていたにも関わらず、「ズボンを履くのはダメです」と正当な理由が言えない状態で子供の自由を奪っているのが自分自身である、という現実を認めたくないから、怒り出します

自分が理由もわからず指令を与えていることを、認めたくないのです

指令に従っている状態を褒められる魂の殺人をされ、アンドロイドとして褒められてきた自分は正しいことをしていると信じているから、その信じているものを間違っていると思いたくないのです

自分自身のことを正しく理解し、自分自身の真実を受け入れることができなくなります

このような状態が、知識欲がない状態です
知識欲がないと、自分の真実をみつけられません
魂の殺人をされて育つと、自己理解・自己受容ができなくなります

「ズボンを履く」ということは、誰にも迷惑をかけることではありません
ただ、大人が偏見と抑圧により、大人の大事にしているフレームの中に、若者を収めようとしているだけのことです
ルサンチマンは、他人を巻き込むのです!!!

自由を奪う行為の話の筋を通すことは不可能です
だから、人間は、「自由な生物である」という本質を見抜かなくてはならないのです
自由でいるのが人間だからです

「スカートの下にズボンを履いてはいけない」というのは偏見です
「スカートとズボンは一緒に履かないものです」と抑圧しているのが、先生なのです

このような「自由を奪う指令が間違っている」という現実に先生方が気付いて、実際に校則を見直させようと子供たちに考えさせている学校のことが、テレビの情報番組で取り上げられていました(2023年5月5日)
先生が、実際に子供を大事にしようと動いてくれている学校だと思います
このように先生方が自ら動いてくださることが理想なのですが、このような事例は稀です
『自由の支配者』が現れてくれるのは、まだ日本では珍しいことです
だから、親である私たちが真実を見抜いて、外から「声」にすることが必要になります
自分の子供、自分の家庭、自分の子供を取り巻く社会を良くしようと思うのが、愛だからです
自由を奪うことが常識になっている社会では、自由でいたいという子供の訴えは、わがまま・自分勝手だと思われてしまうからです

若者に向けられる社会的偏見や抑圧を防ぎ、自分たちの生き方を守り抜く
そのためには、若者を代表する魅力的なMC(「声」にする人)が必要

どこかで聞いたことのある話になっています…

偏見と抑圧のある世界では、外から「声」にすることができる、子供を愛している親の力が必要なのです

人間は、考えるから、人を大事に思うから、魅力的です
実際に、人を大事にして「声」を届けることができるから、魅力的です
魅力的なMCなのが、人を実際に愛する人間です
人間は、美しい!

そもそもの話になりますが…

「制服のスカートの下にズボンを履くのを許す許さない」というのは、根本解決にはならない話題です
絶対に、また別の問題が生じます
制服を着させていること自体、説明がつかないからです
人間は、自由でいるのが、本当の姿だからです
自由を奪う行為は、話の筋が通りません

想像する、考える、というのが人間です

自分で考えて行動する社会が、自由のある社会です

従順他律のアンドロイドでいることが常識の社会、古いシステムの社会では、自由な人間のことが、わがままに見えてしまいます

自主自律の自由な人間は、アンドロイドに攻撃されてしまいます

どこかに出てくる話になっています…

出された指令に従わせる、ルールを守らせることが人々が幸せになる方法だって、多くの日本人は信じています

これが、日本の常識なのです