【2025.01.05|リライト 2026.01.05】
この連載『ハンマーで哲学する』は、ONF の世界を理解するために、自分の内面をニーチェのハンマーで叩いていった記録です。
このページは第3回(全10回)になります。
私が信じてきた「当たり前」
“ニーチェのすごいところは、「支配欲は必要なものである」と考えたことなのです。”
以前、私はこの一文を書きました。
「支配欲」という言葉に、良いイメージを持つ方はあまりいないのではないでしょうか。
「支配欲が必要」というニーチェの思想は、私の大事にしていたものと真逆の位置にあります。
私の大事にしていたもの——それは「日本国憲法の精神」です。
この理想を持つことが大事だと思っていたから、何度かブログにも書いてきました。
個人を尊重する思想と、それを伝えようとするニーチェの力強さは本当にすごいと思う。
だけど、ニーチェったら、支配欲を肯定するだなんて、何言っているのかしら?
おまけに民主主義や平等も批判してるし。
今の時代に合わないよね。
私はこう考えていたので、ニーチェの文章の「支配」の部分は、いつも軽く読み流していました。
「支配欲を肯定するなんて、私とは考え方が違う」と思っていたから、惹かれなかったのです。
日本国憲法は、平等を尊重し、支配を認めていません。
一方で、「人間には、位相・階層がある」「支配欲が必要」とするニーチェの思想は、
「平等」「支配を認めない」とする日本国憲法の思想とは対立します。

ニーチェみたいに「支配欲は必要なものだ」
なんて言ったら、白い目で見られますぞ~💦
ニーチェのように支配欲を肯定する人がいたら、多くの日本人は戸惑うと思います。
私たちは日本国憲法によって「思想の自由」が守られています。
だから、支配の思想を内面にもつことを表面的には認められる人がいるかもしれません。
でも、感情として受け入れられない、という方がほとんどではないでしょうか。
なぜなら、あの国も、この国も、支配者の支配欲があるから国民は苦しんでいる。
過去の日本でも、支配者は人民を苦しめてきました。
職場でも、支配的な上司が部下を追い詰めることがあります。
だからこそ、日本国憲法では支配を認めておらず、
私たちの内面には「支配を認めない日本国憲法の精神」が岩盤のように根付いています。
この岩盤があるから、多くの日本人は「支配欲が必要」という思想を感情的に受け入れにくいのだと思います。
「支配欲は、人を苦しめる源になるんだから良くないよね」
と考えるからこそ、
「支配欲は、抑え込むべきものだ」と。
つまり、内面に支配欲を肯定する思想を持つことは【悪いこと】だと、多くの日本人は判断している。
私はそう考えています。
岩盤の正体
「支配を認めない日本国憲法の精神」——これが、私の中の岩盤の一つでした。
私はその岩盤の上に山小屋を建て、それが丈夫だと信じていたのです。
私の内面には、「日本国憲法の精神」という岩盤がありました。
多くの人類の魂が、この精神に組み込まれているように感じられたからです。
「普遍的に大切なもの」として先人が言葉にしてまとめてきたもの。
その集大成が日本国憲法だと、と私は思っていました。
私は無宗教ですが、この「日本国憲法の精神」を大切にし、信じてきました。
おそらく、多くの無宗教の日本人の方も、この精神に異論はないのではないでしょうか。
平等を大事にし、支配を認めない。
この精神を大事にしていたら、世の中が平和になる。
そう信じていました。
私は、「日本国憲法の精神」を、疑うことなく信じていました。
なぜなら、“多数の魂が作り上げた、人類普遍の硬い岩盤” だと思っていたからです。
でも、私の内面の哲学者が、ニーチェの知識に助けられたのです。
ニーチェのおかげで、ハンマーの使い方や調査の仕方、岩盤の歴史や組成について、少し分かったような気がしました。
内面の哲学者が納得し、小人さん達に命じました。
「本物の大地は、山小屋の下のもっと奥にある。だから、ハンマーで壊してみよう!」
小人さん達はハンマーで岩盤を叩き、砕いてみました。
すると——
この岩盤は偽物。
空洞だらけで、すっかすか。
軽石と火山灰が、嘘の圧力によって固められただけの凝灰岩だったのです。
表面上は人類普遍の理想、硬い花崗岩に見えたけど、ハンマーを使ってみて分かりました。
「日本国憲法の精神」の上に山小屋を建てていたから、雨が降るたびに歪みが生じ、山小屋は傾き、何度も修理が必要になっていたのです。
表面上は丈夫そうに見えた偽物の岩盤を壊すことで、
ようやく安定した本物の花崗岩が姿を現す。
私にとって、偽物の岩盤とは「日本国憲法の精神」
「支配欲は悪いものだ」と感じていた自分の感情。
「支配を認めない日本国憲法の精神」を信じていた自分自身。
驚くべきことに、この状態そのものが——
「嘘を必要とする禁欲主義の影響」
「本物を演じる奴隷道徳の影響」
それ自体だったのです。
岩盤を調べない人の視点に立つと—
ハンマーを持つ人は危険に見えます。
せっかく作り上げた山小屋の地盤を壊そうとしているのですから。
「日本国憲法の精神」を破壊しようとしているように見えるのですから。
平和な緑の牧場を荒らすように見えるのですから。
岩盤を調査する人の視点に立つと—
岩盤の上にいる人は危険に見えます。
もろい岩盤の上で、「本物の知識」を得ないまま山小屋を建てているのですから。
その場所を安全だと信じて建てているのですから。
草原の下は、すっかすかの状態なのですから。
危険ですよね…。
どっちが???
愛着のある場所を疑うということ
ここまで読んでいただいて、
多くの人の内面にいる哲学者は「????」という状態かもしれません。
私自身も長い間そうだったので、その戸惑いはよく分かります。
愛着のある土地にハンマーを入れるだなんて、考えもしなかったのです。
でも、ニーチェの本を読んでいたある時、ふと気づいてしまったのです。
「私が大事にして信じていたもの、筋が通っていない。」
その瞬間が訪れました。
自分のいる場所、自分の信じているものまでも疑う。
愛着のある居場所を壊しても耐えられる強さを持つ。
“力への意志” を呼び起こせる人々に語りかけているのが、ニーチェです。
ハンマーを持てる人が、ついてくればいい。
分かる人が、分かればいい。

ハンマーを持てる人が、
今の日本にたくさんいる。
私は、そう感じています。
衝動と力への意志
人間の深いところには、言葉になる前のエネルギーが流れています。
ニーチェはそれを “衝動” と呼びました。
衝動は理由を持たず、ただ湧き上がる力です。
どの衝動が強いかは人によって異なり、その人らしさを形づくっています。
この衝動が意識に届くと、私たちはそれを「欲望」や「感情」として受け取ります。
つまり、欲望や情動は、衝動が心の表面に現れた姿なのです。
では、その衝動そのものを生み出しているものは何でしょうか。
ニーチェは、その根源に「力への意志」があると考えました。
力への意志とは、
生命がより強く、
より豊かに、
より自分らしくなろうとする上昇エネルギーです。
力への意志が流れ、そこから衝動が生まれ、
衝動が意識に届くと、欲望や情動として感じられる。
この流れが、私たちの内側で絶えず動いています。
ハンマーを持って哲学すると
——知識を得て自分の頭で考えると、
より強く、より豊かに、より自分らしく
この意志が、湧き上がります。
支配が幸福を生む構造
自然な位相では、
「舵を取る側」も、「舵を預ける側」も、どちらも幸福を味わうことができます。
どちらも、力への意志が内面で働き、
目標に向かって努力し、快感を味わうことで、
幸福感に満たされるからです。
「自分の基準で生きる人」も「他人の基準で生きる人」も、
それぞれのもつ価値観が違うからこそ、それぞれが幸せなのです。
この “快感による幸福状態” は、ギリシャ時代の人々の姿から見て取れます。
自分の基準で生きる人(価値を創る人)は、
自分の意志に基づいて行動し、自分の理想を現実とする喜びを感じます。
競争や勝利を楽しみ、これを罪悪感なく行うことで、心の自由を保つ高貴な無邪気さがあります。
他人の基準で生きる人(価値に従う人)は、
自分が支配的な(舵を取る)役割を持たないことを自然に受け入れます。
農業・建築・儀式に参加することで、共同体の一部であることを感じ、満足感を得ます。
個人が自分の役割を理解し、そこに誇りや充実感を見出すことが重要
構造が自然で正当性を持ち、強制や搾取ではなく、両者が相互に依存していると感じられる状態です。
芸術などを通して一体感を形成することも、幸福感を支える背景となります。
ギリシャ時代の人々の社会は、
幸福が普遍的なものではなく、
個人の価値観や役割に応じて異なる形で現れるという、
多様性のある社会
これを読んで、どのように感じられたでしょうか。
「お互いに相手のことを大事にし、依存し合っている」からこそ、社会が成り立つ。
「個人の価値観を大事にする」ことを理解している日本人は、とても多いと私は感じています。
「多様性を認める社会」という言葉も、今では当たり前のように語られています。
個人が自分の役割を理解し、そこに誇りや充実感を見出すことが重要
この点は、私がブログで伝えてきた「自己理解」や「学校で学ぶべきこと」とも方向性が一致しています。
「現実の自分」「自分の役割」
見たくないものでも受け入れる。
どんな自分でも自分のことを愛する。
私は、ギリシャ時代の人々の位相を知った時(2年以上前のことだと思います)、
「確かに、理にかなっている」「とても自然だ」「みんな幸せだ」と感じました。
支配の構造は、多様性のある社会には必要なものとして存在しています。
ギリシャ時代のような幸福感に満たされる多様性のある社会に憧れていたはずなのに…
現実の私は、
「日本国憲法の精神」を信じている自分自身のことを、全く疑いませんでした。
「日本国憲法の精神こそが幸せになる方法だ」と、信じ続けていたのです。
「支配欲を悪いものとして認められない自分」
というのは、
■分かっていること(支配の構造を理想とすること)
■信じていること(日本国憲法の精神を理想として守ろうとすること)
この二つが、正反対になっている状態です。
自分が信じていたのは、日本の “常識” だったのです。
だから、私の山小屋は傾く。
私が丈夫だと信じていた岩盤は、偽物の危険な岩盤だったのですから。
「個人の価値観の違い・多様性を認め合い、幸福感に満たされるギリシャ時代のような姿」
これこそが、
人類が長い時間をかけて築いてきた、
正真正銘、本物の花崗岩の岩盤

ニーチェは、それを伝えてくれているんだね。
支配欲の “方向”
個人が心のままに、自分に正直に、
快感を得て幸福感を得るためには…
舵を取る側の人のもつ支配欲は、必要な欲になります。
ただし、大事なのは、
支配欲の方向。
支配欲は外に向けるものではないのです。
——自分自身の “内面の衝動” を支配する。
支配したい、という情動は、位相が異なる全ての人々の幸福へと繋がります。
位相が整ったとき、支配は価値を持つ
価値を創造する人が持つ支配欲は、
個人が幸福感を味わうことができる多様性のある社会の中で、
価値のあるもの、意味のあるものになるのです。
次は、ルサンチマンと奴隷道徳についてを探ります。






ここで一つ、はっきりさせておきたいことがあります。
ニーチェが語っているのは、
「政治」ではなく、「個人の内面の生き方」です。
そして、私がここで扱っているのも、
日本国憲法そのものではなく、
それが私の内面で「理想」として働いていた、その在り方についてです。