【2025.01.05|リライト 2026.01.05】
この連載『ハンマーで哲学する』は、ONF の世界を理解するために、自分の内面をニーチェのハンマーで叩いていった記録です。
このページは、第4回(全10回)です。ニーチェのハンマーを手に、価値の裏側にある静かな力を見つめていきます。
ずっと続いてきた、人間の“自然な構造”
その答えを探るために、まず、
■自分の基準で生きる人・価値を創造する人・舵を取る力を持つ人
■他人の基準で生きる人・価値に従う人・舵を預ける力を持つ人
この二つの傾向について整理します。
「自分の基準で生きる/他人の基準で生きる」は、きれいに二分できるものではありません。
多くの人はその両方を内側に持ち、場面によって強弱が変わります。
また、「価値を創造する力」と「価値に従う力」どちらも強い人も存在します。
原理には忠実でありながら、表層は柔軟に変えられる——そんな判断ができる人です。
むしろ、社会や時代を一段進めるのは、このようなタイプ。
理解し、慎重で、大胆という、高度なバランスをとっています。
ここでは理解しやすさを優先し、あえてシンプルに分けて説明していきます。
自分の基準で生きる人は、
・感情に流されない。
・楽な方に逃げない。
・自分に課した基準を裏切らない。
支配欲とは、「多数の魂」をまとめあげるための
内面に向かう力。
他者を思い通りに動かそうとする欲望とは少し違います。
迷いが少なく、判断が一貫し、怯えが少ないため、他者がそこに寄りかかる。
他者に苦痛が伴わない限り、それは強引な支配にはなりません。
ただ、構造としては「舵を取る側」につくことが多いのです。
支配欲=権力欲ではない。
他人の価値で生きる人は、
・文化や習慣を守る。
・共同体を保つ。
・自分が建っていられる世界を固定する。
支配欲とは、「今ある意味・秩序・安心」を壊させないための
外に向かう力。
これは生存にとって必要な情動であり、とても大切なもの。
安心のために、価値を創る人の命令を選択するのが自然な姿です。
自分に苦痛が伴わないかぎり、それは“支配されている”とは言えません。
ただ、構造としては、「舵を預ける側」につくことが多いのです。
これが、何十万年もの間積み上げてきた、人類の自然な姿。
この自然な姿が、ひとつの “位相” となります。
優劣ではなく、階層のある、自然な均衡。
ただ、この言葉にどこか引っかかりや息苦しさを覚える人がいるのも、自然です。
「階層」という概念が、“役割の違い” ではなく “価値の違い” として語られてきた歴史があるからです。
人と人とが違いを受け入れ、互いに依存し、
幸福と快感が生まれる自然な社会。
自分の持つ力を発揮し、
文化と科学技術が発展する、人類の魂が築いてきた豊かな社会。
生命のエネルギーがみなぎる、
花崗岩の大地が内面に広がっている状態。
苦痛・犠牲・残酷さ。
これらが意味づけられ、肯定されていた時代。
個人が自分の役割を理解し、そこに誇りや充実感を見出す
人々が階層(力の強弱)を自然なものとして受け入れ、
喜びに満ち、エネルギーが表現される。
私は、その姿を、とても美しいと感じます。
物語が反転し、世界が変わったとき
ところが、今から約2000年前。
長い人類の歴史から見れば、つい最近のことです。
この自然な状態が大きく反転する出来事が起こりました。
それが、
ニーチェが「精神的奴隷一揆」と呼んだもの。
ルサンチマンの登場と、宗教の拡大です。
ルサンチマンは、奴隷階層の中から現れました。
力の強弱そのものではなく、「自分は劣っている」と感じてしまった。
誇りや充実感を見出せず、
役割を肯定できない構造に追い込まれたのだと考えられます。
ルサンチマンは、直接的な力を持たないため、
精神的・心理的な手段を用いて、自分を優位に置こうとします。
価値に従う自分を肯定するために、「独自の道徳観」を発明しました。
自分の持つ「弱さ」「貧困」を善とし、
支配的立場の人の持つ「強さ」「成功」を悪としたのです。
価値を創造する人に対抗するために作り出されたこの道徳観が、
ニーチェの言う「奴隷道徳」です。
聖職者もまた、直接的な力を持たないため、
精神的・心理的な手段を用いて、自らの地位を確立しようとしました。
ルサンチマンを抱える人々の感情と共鳴し、
その道徳を信仰へとつなげ、体系化し、
「道徳の武器」として広めていきました。
ルサンチマンは、自分を優位にするために。
聖職者は、自分を支配者的な立場に置くために。
意図は異なりますが、
共通の “敵”——自分の価値で生きる人・貴族的道徳
に対抗するという点で一致します。
「弱さが善、力は悪」という奴隷道徳は、
弱者の自己肯定感の手段となり、
多くの人の支持を得やすいものでした。
価値を創造する人は少数、
価値に従う人は多数。
数が力となります。
聖職者にとって、この道徳を普遍的なものとして定着させることは、
支配の正当化となりました。
「自分の基準で生きる力」「自分の価値を創造する力」を持たない人が、
舵を取る側につくことを正当化するために作られた 【代替価値の物語】
それが、宗教の教えや奴隷道徳として世界中に広まりました。
精神的奴隷一揆は過去の出来事ですが、
そのときに反転した価値観は、
今も私たちの思考や感情の前提として強く残っています。
現在の「日本の学校の道徳」の原型は、
「力を持たないものが、正当化される奴隷道徳」です。

弱さを武器にする K ちゃん(Wish#1)が
正当化される道徳ですぞ~
自然な均衡が、
嘘と慰めを含んだ物語によって、
歪められた。

エネルギーが抑えられ、
古いものが固定され、
保持される。

価値を創造する者が、
【代替価値の物語】を信じる者によって、
攻撃される。

人々は、衝動を抑圧し、
現実を見ようとしない。
現実を見つめる人と、
すれ違っていく。






じゃあ、なぜ今の私たちが、「支配欲は悪」と感じるようになったの?