【2026.01.09】
この連載『ハンマーで哲学する』は、ONF の世界を理解するために、自分の内面をニーチェのハンマーで叩いていった記録です。
このページは、第6回です。(全10回を予定しています)
“ハンマー”の再確認
ここで3度目の確認をさせてもらいます。
ハンマーを持つ資格についてです。
資格というのは、他人が与えるものではなく、「自分で引き受けられるかどうか」の話です。
とても大切なことなので、ここまで説明してきた言葉を用いて、
もう少しだけ、丁寧に述べてみたいと思います。
このブログに書いていることは、私の考えですが、
ニーチェの考えをたくさん用いています。
不思議なことに、私の思いとニーチェの思いは、
よく共鳴するのです。
だから私は、ニーチェのハンマーを使いながら、文章を書いています。
文字を追いながら一緒に思考の旅をしているのですから、
読者の方も、「ハンマーを手に取っているかもしれない」
——そんな状態で、読み進めていることになります。
でも、この先に進み続けることを、避けたほうが良い場合もあります。
ハンマーは、耐えられるかどうかを試す道具でもあるからです。
今はまだ、「試している段階」と言えます。
これから私は、私自身の内面を壊していく過程について書いていくことになります。
この例えは、
——そのことを伝えるために、用いています。
「耐性が弱い自分」を愛する
分かりやすくするために、私自身の例を挙げてみます。
私は、
「宇宙についての知識は、私自身を苦しめるものだ」
と自己理解しています。
宇宙の知識に対する精神的耐性が弱いのです。
宇宙についての新しい知識が耳に入ってくるたびに、ゾワゾワと、恐怖でいっぱいになります。
人類の未来や、宇宙の巨大なエネルギーが自然と想像され、
その果てしなさや大きさを感じて、怖くなってしまうのです。
(内面に美しい銀河をつくりたい、なんて哲学用語を使っているにも関わらず…)
この衝動は、自然に湧き上がるものなので、どうしようもありません。
宇宙科学の知識を得るのが怖いというのが、私の正直な感じ方です。
だから私は、この衝動を、ある程度は支配しようとします。
支配するために、その場から立ち去ります。
「宇宙の知識を得ることについての精神的耐性が弱い」という自己理解ができているから、
宇宙の知識から自分を遠ざけています。
その方が、私にとっては幸せなのです。
近づかないことも、一つの尊厳だと、私は思っています。
「精神的耐性が強い・弱い」というのは、
人の優劣ではなく、力の強弱です。
・どこまで耐えられるか
・どこまで見えてしまえるか
・どこまで孤独でいられるか
この強さが、人によって違います。
私の精神的耐性が強いのは、「内面を掘り下げること」についてです。
だから、内面の現実を見つめる力を、比較的持っているのだと思います。
私の精神的耐性が弱いのは、「宇宙を掘り下げること」についてです。
だから、宇宙の現実を見つめる力を、持っていないのだと思っています。
内面の知識を得て、楽しいと感じる人もいれば、苦しいと感じる人もいる。
宇宙の知識を得て、楽しいと感じる人もいれば、苦しいと感じる人もいる。
どちらが「善い・悪い」という話ではありません。
知識を得ることについての耐性が、「強い・弱い」という “違い” がある。
それだけのことです。
内面を掘り下げるということ
哲学や心理学というのは、内面を掘り下げる学問です。
中でも、ニーチェのハンマーは、内面に対する破壊力が大きいものです。
だからこそ、
ある程度の耐える力が必要になります。
この学問の知識を得る、ということは、
「人間の内面の現実を見つめる力」を求められる、ということでもあります。
内面を掘り下げることに耐える力を、今はまだ持っていないと感じるのであれば、
哲学という学問から、少し距離を取ることで、自分を守ることもできます。
これは、今の自分を守るために、「今は距離を取る」という選択もできる、という意味です。
自分と他人は違う、という、距離のパトスを保つ。
どの知識が害になり、どの知識が力になるかは、人によって違います。
自分がどのような力の強弱を持っているのか、
自己理解が必要になるのだと思います。
知は、喜びにも苦しみにもなる
自己理解の方法について、私は、まだ見つけることができていません。
ただ、「内面を掘り下げる精神的耐性」について、
一つの目安になるかもしれないと思っているのは、
「考え方の違いを認めることができるかどうか」という点です。
考え方の違いを、すぐに否定せずに受け取れる人は、
比較的、耐性が強い傾向があるのではないか、と感じています。
「そういうことだったのか!」と、
ニーチェの哲学を知の喜びとして受け入れられるかもしれません。
反対に、ここまで読んでいただいて、
「こんなの、おかしいでしょ」
と強い怒りの感情が湧き上がってくるのであれば、
もしかしたら、今は距離を置いた方がよい時期なのかもしれません。
自分の信じてきたものを守ろうとして、衝動が騒ぎだしている。
未知の知識に対する恐怖が、不安となり、
怒りの情動として現れている——そんな可能性もあります。
これは、苦しみとなる知のサインかもしれません。
新しく創造されたものは、古いものを壊すことでもあります。
知識は、破壊する力を持っています。
だから、
知識には、耐える力が必要なのだと思います。
「内面を掘り下げることについての精神的耐性の強い人」
この方たちにとって、ニーチェの哲学の知識が力となることを、私は信じています。
だからこそ、このブログを書いています。
そして——
これは、
“新しい世界へ行くための、価値転換のハンマー”
なのです。
ハンマーを置く自由
宇宙を掘り下げるハンマーを、私は持ちません。
恐怖を感じ、苦しいからです。
耐える力を、持っていないことを自覚しています。
未知の知識や現実と向き合う「力がない」ことが分かるからです。
知は私にとって、害になります。
「宇宙の知を愛する」ことは、私には “できない” のです。
だから、距離を置きます。
それは、逃げではなく、
自分を守るための選択です。
だけど——
内面を掘り下げるハンマーを、私は持ちます。
喜びを感じ、楽しいからです。
耐える力を持っていることを、自覚しています。
未知の知識や現実と向き合う「力がある」ことが分かるからです。
知は私にとって力になります。
「内面の知を愛する」ことが、私にはできるのです。
私は、「宇宙の新しい知識についての精神的耐性の弱い人」です。
だから、自分自身を守りたい。
宇宙科学の知識は、私にとって恐怖となるため、距離を置いています。
同じように、
「内面を掘り下げることについての精神的耐性の弱い人」もいます。
哲学の知識は、心の拠り所となっている土台を壊し、
苦痛をもたらす可能性を含んでいます。
だから、
今は距離を置くという選択も、
自分を守るための、とても大切な選択です。
自分で自分を守る——
それが、自分を愛する、ということなのだと、私は思っています。
慰めに守られてきた私たち
「自分が、知を愛することが “できない” 」
この言葉を見ると、少しドキッとしないでしょうか。
私自身、「これが自分には “できない” ことなのか」って、
文字にして初めて気づきました。
これが、奴隷道徳の恩恵なのだと思います。
“できない自分” を、
知らずにいられること。
「これが自分の弱い力なんだ」ということを、
知らないままでいられる。
これが、奴隷道徳の持つ優しさです。
今、テレビの子供番組から、
♬ なんだって できる~
という歌が聞こえてきました。
(Eテレがついていたのが、不思議…)
でも、これは、慰めです。
こういうところにも、奴隷道徳は存在しています。
現実は、
♬ できないことも ある~
この現実を、カラッと明るく歌える世界が、新しい世界なのだと思います💛
私がここで伝えたいのは、
「できない自分自身も含めて、自分のことを愛する」
ということの大切さです💗
自分自身の「強い部分」も、「弱い部分」も、
自分で知って受け入れることで、
自分の内面を、少しずつ支配できるようになります。
日本の学校は、
「弱い力を持つ自分から目を背けること」が起きやすい構造になっているように、
私は感じています。
優しく慰めながら、先生たちは接してくれます
——「見なくていいよ」って。
そうやって大人になった私たち自身が、
「力が弱い」という現実を受け入れることに、
とても勇気がいるのも、無理はないのかもしれません。
「愛することが “できない” 自分 」から、目をそむけたくなるのは、
日本の常識の中で生きているのだから、自然なことのようにも思えます。
でも、強い部分も弱い部分も含めて、自分なのです。
すべてが強い人も存在しないし、すべてが弱い人も存在しません。
さまざまな「力の強弱」があるのが、
生物としての人間です。
「自分を大切にする」「自分自身を愛する」というのは、
自分の持っている力の強弱を知り、
自分で自分を守ること。
そう、私は考えています。
だから、
「ハンマーを持ち続けるか」「ハンマーを、ここで置くか」
それは、自分を大切にできるかどうかの、一つの選択です。
自分で自分のことを守り、愛を感じられるときです。
ここからは、少し肩の力を抜いて。
♬
人生は~ 自分のことを知る旅なのさ~
でもね~ 知らないままの方が~
幸せな場合もあるのさ~
私と一緒に、
明るく歌いましょう😄🎵





「知識は、人を苦しめるものにもなる」