【2026.01.23】
Happy Birthday WYATT💛🎂
私に意味を与えてくれて、ありがとう!
ずっとずっと、大好き💗
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この連載『ハンマーで哲学する』は、ONF の世界を理解するために、自分の内面をニーチェのハンマーで叩いていった記録です。
このページは、第7回(全10回の予定…)です。ニーチェのハンマーを手に、価値の裏側にある静かな力を見つめていきます。
【自己正当化の物語】——弱さが “善” になる構造
ここで、『ハンマーで哲学する』の内容を、少し整理してみます。
内面に支配すべき秩序がないと、
自分の中で統治できない支配欲を、外側の価値や秩序に委ねようとする。(他者支配)
支配欲が外に向かうと、
他人を思い通りに動かそうとしたり、
価値や行動を強引にそろえようとしたりします。
だからこそ、舵を取る側には、
内面をの衝動や欲求の間に序列を与え、指揮する力が必要です。
つまり、
自分自身を統制できることが求められます。
そして、舵を取る側に、
「価値に従う人」がつくと、
価値が固定化され、文化が停滞するような状態が生まれます。
舵を取る人には、
自分の衝動をある程度統制できる、「自分自身の支配者」である姿勢が必要です。
まず、「価値を創造する者」であることが求められます。
自然な位相が崩れた大きな原因として、
「価値を創造する力」や「自分の内面を支配する力」を持たない人が、
舵を取る側につくことを正当化するために生まれた【自己正当化の物語】
があります。
宗教は、人々を支える物語であると同時に、
“弱さを善とする価値の転倒” を正当化する物語としても機能してきました。
ニーチェが批判したのは、この構造そのものです。
「弱さ」を道徳へと変換し、
それを常識として固定することで、
他者を縛る構造そのものを、ニーチェは問題にしています。
ここでいう「力の弱さ」とは、身体的・知的な能力の優劣ではなく、
自分の衝動と向き合い、引き受ける力の弱さを指しています。
自己正当化とは、自分が正しいという状態にすること。
この物語を常識にしておくことで、
力の弱い者が正しい——“善” になり、優位になります。
力の弱い者が、舵を取る側につくことができます。
階層は「力の強弱」として自然に人々に受け入れられていたものでした。
しかし、
【自己正当化の物語】を信じることで、
「弱い力を持つ者が善」「強い力を見せる者は悪」という
“価値” が常識として存在するようになりました。
「階層」という言葉にどこか引っかかりや息苦しさを覚えるのも、
自然なことです。
「階層」という概念が、
“役割の違い” ではなく、
“価値の違い” として語られてきた歴史があるからです。
本来は、
「強い力を持つ人/弱い力を持つ人」という “役割の意味” であったはずなのに、
「悪い人/善い人」 という “価値” がつけられて語られてきた。
つまり、
「強さ=悪」「弱さ=善」という価値をつけた物語が、【自己正当化の物語】です。
この物語は、
「自分自身の持つ力の強弱(現実)から目を背ける」
という効果を生み出します。
内面の現実を直視することが苦しい人にとって、
この物語は受け入れやすいものでした。
現実を見なくていいよ
と、内面の現実から優しく遠ざけてくれるからです。
これが常識として人々に広まったことで、
舵を取る側に「内面に支配すべき秩序を持たない人」がつくことが可能になりました。
その結果、支配欲が外へと溢れ出し、他者支配が行われるようになります。
つまり、
私たちの社会に常識として存在する【自己正当化の物語】は、
【他者支配が正当化されている物語】と言い換えることもできます。
階層という言葉に、息苦しさを感じること自体が、
【自己正当化の物語】が私たちに根付き、他者支配が行われている証拠
このように言えるのかもしれません。
【自己正当化の言葉】
この【言葉】をかけられても、
この【言葉】が歌になっていても、
人々は、
この【言葉】を常識のままにします。
常識を疑わないままでいると、
それが【他者支配を正当化させている言葉】だということに気づけません。
だから、他者支配が行われ続け、苦しみ続けることになります。
【自己正当化の物語】が、宗教や道徳として世界中に広まった
ニーチェは、このことを私たちに伝えてくれています。
では、
【自己正当化の物語】というのは、どんな話なのでしょうか。
実際に、言葉にできるでしょうか。
“常識になっている” から、気づきにくい。
“当たり前のこと” として、日常に溶け込んでいる。

もちろん、私自身もまだ気づけていない、
【自己正当化の物語】や、それに伴う【自己正当化の言葉】
たくさんあると思っています。
ここでちょっと立ち止まってみましょう😊
自分の身近にある、【自己正当化の物語】や【自己正当化の言葉】
——これを見つけ、自分の言葉で表現してみる。
それをやってから読み進めると、
この先の面白さが、きっと増すと思います。
「価値を創造する力」「自分の内面を支配する力」を持たない人が、
舵を取る側につくことを 正当化するために作られた【自己正当化の物語】
これを、一緒に見つけていきます。
「見なくていいよ」という優しさの罠
これまで、ニーチェの哲学の一部を、私の解釈を通して書いてきました。
この先は、ニーチェのハンマーを使いながら、
私の内面の岩盤をハンマーで叩いていくことになります。
私が『ハンマーで哲学する⑥』を書いているときに聞こえてきた、
“なんだってできる”
この言葉について、考えてみましょう。
“なんだってできる” は、優しさの一種とも言えます。
なぜなら、
「見たくないものを見なくていいよ」と、隠してくれるものだからです。
「見たくないものを見なくていい」
そう言われると、素敵なもののように感じられませんか。
自分の力から目を背けることができます。
「なんだってできる」
この言葉には、
「あなたも一緒に現実を見なくていいよ」
という意味が含まれています。
しかし、この優しさが、反対に人々を苦しめてしまうことがあります。
なぜなら、
【自己正当化の言葉】が常識の社会の中で、
内面の現実を直視することが苦しい人が、
自分の力の強弱を知らないまま役割を選ぶと、
支配欲が他者へと向かってしまうから。
【自己正当化の言葉】が常識のままだと、
支配欲が他者へと向かってしまう。
そうすると、
その社会の中にいる人々が苦しむことになります。
同じ言葉が、ある人を救い、ある人を追い詰める
「なんだってできるよ」という言葉は、
多くの方にとっては勇気づけられる素敵な言葉です。
「私たちには機会が平等に与えられているんだ。」
「自分も挑戦すればできるようになる。」
そう思い、頑張る人が現れます。
実際に、この言葉によって力が湧き出てくる方もたくさんいらっしゃいます。
確かに、できなかったことができるようになることを目指すのが挑戦であり、
努力はとても大切です。
しかし、この言葉には、構造として次のような特徴があります。
・「なんだってできる」と受け取ると、自分の力の強弱を測る前に「できる側」に立とうとする
・「できない」という現実を扱う場所がなくなる。
「なんだってできる」が、私たちを縛る
“なんだってできる”という言葉を素直に受け取ると、
まだ内面の準備が整っていない段階でも、
自分は価値の方向を決める側に立てるのだと信じてしまうことがあります。
その結果、役割に必要な内的な力と、実際の力との間にズレが生まれ、
他者に影響を与える立場に立とうとしてしまうのです。
「私たちは、機会は平等。挑戦し、努力すれば、なんだってできる。」
自分だって、「やればできる!!」
だから、自分も、「舵を取れる!!」
実際には、まだその役割に必要な力が育っていない段階でも、
そう思い込んでしまうことがあります。
「なんだってできるのであるから、できないことはない」という前提が働き、
「弱い力を持つ自分」が隠れてしまうのです。
ここで言う「舵を取る側」とは、
国家や組織のトップに限らず、
価値や常識の方向性に影響を与える立場全般を指しています。
置いてけぼりになる「できない人」
「なんだってできる」「やればできる」という言葉に勇気づけられ、
頑張ったことで成果を上げる人が現れます。
一方で、同じように努力しても結果に結びつかず、“できない” 人も現れます。
頑張っても頑張っても、速く走れない。
頑張っても頑張っても、理解が追いつかない。
頑張っても頑張っても、音程が合わない。
頑張っても頑張っても、合格に届かない。
「なんだってできる」「やればできる」と信じて挑戦し、
できないという現実を突きつけられる。
人間は、「なんだってできる」「やればできる」存在でしょうか。
弱い力も持っているのが、人間です。
つまり、
「なんだってできる」「やればできる」のだとしたら、
比喩的に言えば、その人は、人間ではありません。
「自分は人間ではない」と思おうとしている言葉が、
常識になってしまっている。
ここに、現実から目をそらす構造があります。











内面に育てるべき価値を持ち、
支配欲を誠実に引き受け、新たな価値を生み出すエネルギーにする。(自己統御)