2 考えない子が…

違いを認めずに、怒りをコントロールできなくなっている状態が大きくなると、戦争になります
戦争をするのは、人間ではありません
兵器という道具を使う、怒りをコントロールしていない動物です
私のイライラに対して、B もイライラしているのは、私もBも、どちらも表現方法が未熟だということです
動物に近い、ということです
未熟者どうしは、争いごと(口論)をします
表現方法が未熟なのが、子供です
母親の私が未熟なままだから、言葉じゃなくて怒りによって子供を自分の作ったフレームにはめ込もうとしています
私と子供の価値が違うことを認めていないから、イライラします
自分で考えて行動するのが人間なのに、私の価値(指令)で行動するアンドロイドを育てようとしているんですね
これが、ルサンチマン的支配です
私は、私の価値で子供に行動させようと、指令を出しています
指令を出すのはアンドロイドです
子供が指令に従わないと、言葉で筋道を立てて説明できないから、怒りによって子供を動かそうとしています
怒りで他人を行動させようとするのは、動物です
子供は、自分の価値で行動したいから、意志を表しています
自分の考えで行動するのは、人間です
親の私が、アンドロイドとなり、動物となり、子供を支配しようとしています
子供は、自分の真心を表し、人間として生きようとしています
ルサンチマンは、ルサンチマンの価値で周りの人が動くと信じています
ルサンチマン的支配者の常識を保持するために、意志を表す人間を面倒だと思って攻撃します
そして、子供は「お母さんだって片付けてないでしょ~」と、自分の考えを言ってくるのです
「どの口が言う?」というメチャクチャなことを言っている母親の状態を見抜かれているわけす
それを認めずに子供をさらに怒る親は、自分と向き合っていない、ということなのです
「そうだよ~ でも、私はみんなのいる場所はきれいにしている!」と私は言います
でも、この言い訳も間違っていて、決してきれいにはなっていないのです
先にパソコンに向かってしまい、家事を後回しにしているのですから…(-_-)。
私は、「そうだよ」と言って自分のことを認めているかのように見せていますが、実は、「片付けていない」ということなのです!!
言っていることとやっていることが違っているんです
言い訳をしている時点で、自分の身を守ろうとして、国会の答弁と同じようなことを自分もしているのです
仮に、きれいに片付けていたと思っていても、きれいに片付けるという基準が人によって異なるので、「片付けていないでしょ」と子供の基準で言われてしまえば、それはその通りになってしまいます
要するに、私は、話の筋が通らないことをしているのです
「話の筋が通っていないことをしているのは、自分である」ということを認めることができている今の私の状態が、ようやく学ぼうとする心(知識欲)がある状態になっています…
真実をみつけるためには、学ぼうとする心(知識欲)が必要なのです
「片付けなさい」と指令を与えていたアンドロイドの私が、人間になって人間を育てようとすると「片付けなさい」と言うことができなくなる、ということになります
自分で考えて行動する(意志を表す)のが人間なのだから、「人間を他人の価値に従って行動させることはできない」ということです
他人の価値に従わないのが、人間だからです
自分の価値を創造するのが、人間だからです
自由なのが、人間だからです
つまり、人間は、人間に「片付けなさい」と、指令を出さないのです
「片付けてないでしょ~」と言われないようにするためには、指令を出さないことが、最善の方法なのかもしれません…
いや… これも騙されないでください!!
当然、片付けることです!!(笑)
つまり、結局のところ、真実を見抜いているのは、「お母さんだって片付けてないでしょ~」と言って、意志を表している子供(人間)なのです

真実を見抜かれて、立場が悪くなるのは、ルサンチマン的支配者です
言葉で説明できないから、怒りや制裁によって、人間を攻撃しようとします
ルサンチマンは、話の筋が通らない言い訳をします
意志を持つ人間は、真実を見抜き、意志を表します
人間は、指令を出して怒りで他人を従わせようとする、自由を奪う行為を嫌います
家庭で意志を表す B を「面倒な子」だと感じるのは、親の価値で子供が行動すると信じているから、ということです
「自分の価値で周りの人が行動すると信じている」から、子供に「片付けなさい」と指令を出します
「他人の価値で周りの人が行動する」というのは、「ルールを与えて守らせる」というのと同じような意味になります
ルールを守っていると、自然と、他人に従っている状態になっています
自分の価値をルールにしているのが、ルサンチマン的支配者です
「ルールを守る」を信じているのが、日本です
「ルールを与えてその通りに行動させる」のが、日本なのです
「ルールを与えて制服を着させる」のが、日本なのです
これは、指令を出して他人を動かそうとすることが常識の、アンドロイドの世界ということになります
子供は、他人が「言っていること」「やっていること」に納得できない、というのを、言葉で論理的に伝えることが難しいんです
怒りをコントロールすることが難しいんです
まだ発達途中で、未熟だから
人間が納得のできないことをしているのが、ルサンチマン的支配者です
私が、人間になればいいんです
指令を出すのをやめ、子供の意志を尊重すれば良いのです
子供の心を大事にし、子供を1人の人間として大切にすることです
子供も、1人の人間です
「他人に従うのが正しい」ということは、どうやっても言葉で説明できないものです
人間は、自分で価値を決める生き物だからです
自分の支配者は、自分自身だからです
自由なのが人間だからです
他人に従っていることに納得してしまったら、それは、ルサンチマンに騙されているということなのです

同じであろうとする、違いを認めないのは、アンドロイドです
同じなのが、アンドロイドだから
違いを認めるのが、人間です
違うのが、人間だから
Aは、システムについて考えていません
Aは、古いシステムをそのままにしています
古いシステム(他人に従うこと)について考えていないから、日本の常識に染まっているから気付かないんです
だから、部活の先生や母親の威圧的な言動や態度を、「それぞれの考え方があってやっていることだから」とその行為を認めてしまい、そのシステム(指令を出される状態)をエラーにしようと動きません
「それぞれの考え方の違いを認める」このことを A は理解しています
しかしながら、「人々の自由を奪う考え方」まで認めてしまっている状態というのは、「人間として生きることをいつの間にか諦めさせられている」ということなのです
これが、ルサンチマンの価値なのです
Aは、真心を伝えず、周りの子供たちにも我慢の状態を保持させ、システムエラーにしようと行動していません
友達を大事に思っていますが、真心を伝えません
心で大事に思っていても、行動で大事にしていません
大事にしている、というのは思い込みであって、実際に、人のことを大事にしていないのです
A は、「心と行動が一致していない自分」というのに気付くことが必要です
「相手を大事に思う真心が相手に届かない」それが、歪んだルサンチマンの世界です
心と行動が一致しなくなるのが、従順他律の古い世界なのです!
母親に対しても、怒りが冷めるのを静かに待っています
それが幸せになる方法だと信じています
怒りのある間だけ我慢すれば、幸せになれると思っています
幸せになるためには、間違っていることを正すことが必要なのに、今の状態を疑っていません
他人に従う世界では、人間は幸せになれません
それなのに、指令を出す行為を認めたままにしているのです
Aは、現在のシステムをそのままにしています
人間が幸せになる社会をつくることができるのは、A、Bどちらの考え方で行動する子供でしょうか
自分のことも、友達のことも、未来の人々も幸せにすることができるのは、A、Bどちらの子でしょうか
A のような子がいい子と認められるのが、教育が遅れている日本です
システムについて「考えない子」です
ルールを守る(他人に従う)子です
B のような子がいい子と認められるのが、教育先進国です
システムについて「考える子」です
自分の考えを持つ(自分に従う)子です
日本人が「考えていない」と海外の方々に言われる理由、ここにもあるような気がしています
「考えない子」が「いい子」なんです!
ところで、A と B のきょうだい関係は、どちらが上の子だか、想像できますでしょうか…
ちょっとだけここに、きょうだいについて書いてみました↓
おそらく、ほとんどの方の想像通りではないかと…
上の子が A です
A が幼かった時、私の言うことをきいているときに、いっぱい褒めました
魂の殺人です…
幸いなことに、自分で学び取って、考え方の違いについては認められる子に育っています…
幼稚園に通わせました
その幼稚園はルールがたくさんあり、持ち物も細かく決められ、制服がありました
体操、読み書き、英語… 他にもお勉強をたくさんさせる幼稚園でした
先生の言ったことができている時に、A はたくさん褒めてもらっていました
午前中はほとんどやることが決まっていて、自由に遊ぶ時間はとても少なかったです
私は、この教育方法がいいと信じていたんです
早くできるようになることがいいことだって思っていました
年少で友達に手紙を書いて、逆上がりもできる A はすごい!と思っていました
いろんなことができるようになるから、A も喜んでいました。
下の子が B です
私は上の子を育てた経験から、子育てに見通しを持つことができるようになっていました
そして、子供の心を大事にしていなかったことに気付けた私は、子供のありのままを大事にしました
保育園では、服が汚れるのを気にせずに、泥遊びや自然とのふれあいを思う存分にやらせていました
毎日、何度も着替えさせてくれました
時間に追われることもなく、自分で好きな遊びをみつけてたくさん遊びました
B の良さをたくさんみつけてくれる先生方に、B はいっぱい励ましてもらいました
私は、この教育方法がいいと今は信じているんです
成長のスピードが違うのが人間なのです
その子のタイミングで、自分でできるようになりたい、やりたいと思う時が来るのを待ち、心を大事にしているからです
そして、いろいろな遊びを通して、人間関係や幸せになる方法を、自分で考えて学び取っているようでした
できるようになるのは遅かったけど、子供は喜んでいました
できるようになって喜んでいる姿は、同じように見えるかもしれません
A ができるようになるまでには、「やってみたい」という気持ちがないものもありました
自分に興味がないものも決められた時に、その時間にやらなくてはならないから、苦しんで行っていたものもありました
B ができるようになるまでには時間がかかりました
でも、「やってみたい」という気持ちが生まれた時に、自分から挑戦してできるようになりました
子供の生まれ持った気質もあると思います
遺伝か環境か、みたいな話にもなると思います
だから、一概には言えないのだけど…
下の子の子育て時には、親の肩の力が抜け、無理なしつけをしようとしなくなり、親は子供のありのままを受け止め、成長を待つことができるようになるのではないかと思っています
たくさんのママたちの話の内容から、子供のきょうだいの性格として、下の子ほど意志を強く表現している傾向があるような気がしています
親の接し方の違いも、その傾向を作っているのかもしれないな~なんて、何となく思っているのです
「下の子がわがままで…」みたいな話をする人が多いような気がするのですが、これは、わがままではなく、自分の真心を伝えて自分で自分の幸せを手にしようとしている人間らしい姿になっているんじゃないのかな~なんて、思うのです
下の子のときには、親が支配の力を弱めることができて、子供の自由を認めているのかな~なんて…
わがまま:自分の思いどおりに振る舞うこと。また、そのさま。気まま。ほしいまま。自分勝手。「―を通す」「―な人」(goo辞書より)
わがままというのは、実は、自主自律に必要な段階なのかもしれません
自分勝手や周りに迷惑をかけるのは、困ります
自分の思い通りに振る舞うために、気ままに、ほしいままに、やりたいことをやれるように、自分が主人公になって自分で選択することが、自主自律なのだと思います
「わがまま」を「芸術」へと昇華できるようになることが、成長なのだと思います!
下の子のほうが、より自由がある環境になるのだと思います
親が子供に、自由を保障できるようになるのだと思います
人間には、自由が必要なんです!
性格には、兄弟の上下は関係ないようですけどね…
環境として、自由度が高くなるような気がしています
気がしているだけです…

B は、システムについて考えています
B は、古いシステムを認めようとしないのです
新しい脳みそを使っているから、自由が無い状態を認められないのです
人を大事にしたいと思っているから、自由を奪う龍を認めないのです
だから、部活の先生や母親の行為に違和感を持ち、そのシステム(ルサンチマン的支配)をエラーにしようと実際に動きます
話の筋が通るように正すことが人間には必要だからです
意志を表すのが人間だからです
自由の無い場所では、人間は幸せになれません
人々の笑顔を奪う行為を許さないから、それを正すために、真心を「声」にして伝えています
真心を伝えることで、思いやりと優しさのある笑顔あふれる世界を作ろうとしています
システムエラーにしようとしています
B は真心を伝え、実際に自分を大事にし、周りの友達を実際に大事にし、自分で考えて行動しています
人間が大事だから、真心を伝えています
B は、真心を伝える方法を場合によって変えています
間接的か、直接的かの違いです
自分が権力者の下にいる場合には、直接的に言っても伝わりにくいから、間接的に外からの力でシステムエラーにしようと意志を伝えます
自分が母親の下にいる家庭で、直接的に言っても伝わりにくいけど、支配者(私)と信頼関係を築いていて、何を言っても嫌われない、危害を受けないという安心感があるから直接私に伝えます
私は、後で自分が間違っていたことを認めて謝ることはできます
だから、子供は真心を直接伝えるのだと思います